中津 昌子


なまなかな情けかけられ情けなくなりたる身体(からだ)湯に沈めゐつ

外塚喬『火酒』(2003年)

 

 

なるほど、同じ情けならしっかりかけられたい。
と思って、しかし情けというものは、そもそもかけられる方にとっては、結構、複雑なものであることに気づく。
人の情けが身にしみる、などという言い方もあるが、そういう時であっても、ありがたいと思う心の奥底に、人の助けや気持ちを受けねばならない自分に対するふがいなさや、ある負債の気分がひそむものだろう。
対して、情けをかける方は、こういう言い方も何だが、まず気分がよかろう。かけられる側は、また、その気分のよさを微妙に感じとって、いっそう複雑な気分になる。
純粋に人の情が行き来する場合を否定しないが、往々にしてこのようなものではないか。

 

まして掲出歌では、「なまなかな情け」、中途半端なものである。
いかにも体裁だけ、そのうすっぺらさがすぐわかる、というようなもの。これでは、先に書いたような複雑な気分にもなりようがない。
一蹴して済ませたいところだが、心というもの、そう思う通りにいかない。

 

「な」を多用するなか、初句、二、三、四句、いずれも「な」ではじめて調子をつけ、また三句目では、二句目につづいて「情け」ということばを繰り返し、勢いをつけている。そして「情けなく」で切り上げずに、「なりたる」を加えて、心情、音ともにやや間のびした感じを出している。
こういう運びもあってだろう、「情けなく」には妙なおかしみが漂う。

 

顎のあたりまでブクブク沈んで、何とも晴れぬ気持ちをもてあましている図が目に浮かぶようだ。