透けるより映ってしまう川だった 氾濫、すぐ見に行くね

椛沢知世『あおむけの踊り場であおむけ』
(書肆侃侃房、2024)

ひとたび台風が来でもすれば、テレビであれほど「川の様子を見に行くようなことはぜったいにしない」と言い聞かせる。だから、この歌にいう「氾濫、すぐ見に行くね」などもってのほかということにもなりかねない。いや、ここで重要なのはむしろ、上の句の方だ。水底を覗こうとして「映ってしま」ったのはつまり自分の顔だろう。自分が氾濫するとなったら打ち捨ててはおけない。けれど、その氾濫自体をどこか寿ぐような印象もある。

散らばったかばんの中身の手鏡に映るわたしのものとわかる手
寝る前にスマートフォンを手にとって好みな顔の光を浴びる
アパートに吊るされているCDに映る顔するわたしなのかも

この歌集にときたま登場する鏡やそれに類似するモチーフ(引用の一・三首目)は、きまって「わたし」という自我の存在確認のきっかけとなる。人はふつう化粧をしたり、顔を洗ったり、しかるべきタイミングで鏡を見るが、この歌集の「鏡」は神出鬼没といったおもむきで主人公の目の前に出現する。川底を覗けば顔が映ってしまう、ぶちまけられたかばんの中身に手鏡がある、カラス除けにつるされたCDに映る自分——。うつりこんでいるものを「わたしのものとわかる」「わたしなのかも」とたえず確認しながら、自分の姿を自分で視認できること、つまり身体があるということをひそかに喜んでいるような印象だ。「CDに映る顔するわたしなのかも」という奇妙な言い回しも(この種の文体のゆがみは、この歌集独自の持ち味だ)、ここでは不意に自分の身体を視認したことによって発生した一種のハレーションだと考えてみてもいい。

二首目、その「光」とはきっとネットサーフやSNSでみつけた好きなモデルやインフルエンサーの顔のことで、主人公はこれをまるでフェイスパックのように自分の顔に吸収させる。浮遊しがちな自我が、身体というものに強烈なあこがれをいだくこの奇妙さは、歌集中で「妹」以外の登場人物が徹底して排除されるということとおそらく関係している。いや、妹さえあやしいのだ。

あくびして妹にあくびが移る喉をとおったような夕焼け
夏の大セールで買った妹はセーター厚地のヒツジの柄の
今日夜道あかるく見えて妹と背中合わせでいると思った

一首目のうたいぶりを見ると、その「妹」はたしかに存在するように思われるが、「~ような夕焼け」と着地されると読者としてはやや不安になる。あるいは妹が買ったセーターに言及しながら、まるで「夏の大セールで妹を買った」かのような語順をとるのはなぜなのか。さらに三首目でその存在はいよいよあやしくなってくる。それでも、主人公(自我)と背中合わせにいるという「妹」は、人間関係が閑散としたこの歌集の中で、他者という役割をたったひとりで背負わされ、退屈になりがちな主人公をなぐさめる。そんな「わたし」と「妹」の関係が、もはや概念としての自己と他者になりかかりながら、まるで空き家の中を埃が舞うようにこの歌集の中を漂っている。

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