永井陽子『樟の木のうた』
(短歌新聞社、1983)
永井陽子の第二歌集『樟の木のうた』には、中盤ふいに「大学」という舞台が出現し、そしてすぐに消える。一首の中で「大学」明示されているのは掲出歌のほかに
とらじまの太き二匹の野良猫が大学の中で育ちゆくなり
休日の大学に来てがばと大きな画布のやうなる風に逢ひにき
「残しおく風と空と大木に」
という二首があるのみである。
たしかに大学のキャンパスには猫がつきものだが、ふつうは学生や用務員のような人たちに食べるものを与えられたりち見守られながら棲みついているのを、この歌のいいようではまるで人間たちのおもかげが感じられない。そもそも大学は若者たちのつどう場所で、それだけに熱量をはらむ場所になりうるのだが、引用の二首目でも、「休日の大学」とわざわざ言明し、ひっそりとひとけのない舞台を演出する。大学というからっぽで大きな空間と(どういうわけかそこをわざわざ訪れる)ひとりっきりの自分、という対比。「がばと大きな画布のやうなる風」はいっけんわかりにくいが、やはりなにも描かれていない大きなキャンパスのようにまっさらな空間ということだろう。
そんなふうに徹底して人の気配を排除した空間に、もはや変態的な演出の炸裂するのが今朝の掲出の一首である。世阿弥ということは「風姿花伝」だろうか(大学という舞台に演出が加えられていることと、そこで読むのが能の理論書であるということは何か関係があるのかもしれない)、そこに突然聞こえてくる「フランス組曲」(バッハ作曲)の音色には、東洋と西洋の対比という意図があるのだろうけれど、読者としてはここでとつぜん人の気配を示されることの方が気になる。なんだか耽美的なホラーの一場面という感じがしないでもない。隣に誰かいる! 次の瞬間何が起こるのか。
ここまでは「大学」を舞台にした歌を見てきたけれど、人を排除しようとする演出はほかの場面にもみられる。そして、この主人公はえてして人の去った場所にいつまでもその気配を、大切に味わっていようとする。
剣道着解かず寄り来て髪に触れ汗のにほひを移してゆきぬ
たはむれにかぶせくれたる面頬の汗くさき闇もあたたかかりき
陽も入らぬまづしき家に汝が残せし水時計日時計もろもろの時計
春あはき教室に子が置き忘れたる湖のあをさの三角定規
踏切のむかう今は無人の父母の家には実をとるための梅の木がある
あとの三首はいずれも、遺品や忘れもののたぐいに焦点を当て、持ち主の不在を強調している。一方で、主人公の恋人であるらしい剣道をするその人が登場する一・二首目は、その人の存在よりむしろ「汗のにほい」を描いて、その人の残していった、ピアノの音色同様に目には見えない、しかし紛れもない存在の証を愛でている。孤独を愛し、休日の大学をわざわざ訪れるように人のない場所を選んで過ごしながら、しかしどうしても人のいた証——遺品、忘れもの、ピアノの音色、汗のにおい——をコレクションしてしまう、この主人公のそんな性質が見えてくると思う。