花山多佳子『楕円の実』
(ながらみ書房、1985)
『楕円の実』を読んでいると夜に見る夢の描写が目につくが、これもそのような一首なのかもしれない。頭の中に蔓のようにどんどん増え、充満していくものがあって、まるで自由な思考や感情までもが奪われるように思えた瞬間、ふとその頭に手をやれば、まるで脳髄から突き抜け生え出てきたような自分の髪がある、それで我に返ることができた。そんなふうにこの歌を読んだ。自分の頭の中にありながら、とうてい自分では制御できない異物という意味で、「蔓」という喩えはとても効いている。この『楕円の実』は花山の第二歌集。
それに先立つ第一歌集『樹の下の椅子』(アイ印刷、1978)を読んでいたとき、
壁の中より滲みくるひそけき歌のごとき微笑のごときものに手を触る
という歌があって不思議に思っていたのだが、掲出歌に出会って、こちらもいくらか理解できたような気がした。この二首は、はみ出してくるものにさわる、という表現では共通している。「歌のごとき微笑のごとき」というからこの壁の中から滲むものは、悪い感情ではないように当初は思っていた。しかしこの歌にも、刻々と確実に押し寄せてきて押しとどめることができないものへのかすかな恐怖感を読みとるべきなのではないか。歌と微笑。それらはまるで親し気な表情ですり寄ってきながら、怖い、と感想を漏らすことを決して許してはくれない。「~のごとき」を二回繰り返すところにも、決して後には引くまいという執拗さと、主体の側の不信と恐怖が現れているように思う。
もっとも掲出歌のほうは、「ひしめく」とか「蔓」(クズのように決して根絶やしにできないイメージ)という言葉が使われていて、嫌悪感ははっきりと示されている。先には壁から滲んでくるのをかすかな不信感をもって見つめていたのが、いつしか身体の中に、それも「脳髄」に飛び火したというのだから、それは自分が乗っ取られてしまうのではないかというパニックが伴うにちがいない。
『楕円の実』では、このひそやかな恐怖の表現がいっそう研ぎ澄まされているようにも思う。
夜の乳房ふくらみてくる遠からぬ死へ搏ちつづく鼓動つつみて
アメリカの楓は手ほど大きいとききて怖るる木の赤き手を
抽出しはみな少しずつ開いている真昼の部屋に入る蔓の先
未だ睡る髪の重たく佇 つ窓べ曇りてかすか蔓の先うごく
蔓を詠んだ三・四首目は掲出歌とは別の「しずかに充ちて」という一連から、「抽出しはみな少しずつ開いている」というシチュエーションも異様だが、四首目などを見ると蔓という表現はやはり「髪」のことを言っているのかと疑いたくなる。蔓が屋内に入ってくるという表現には自分の中に異物が入り込んでくるという恐怖が微含されているようにも読める。一・二首目も含めて身体感覚のありかが身体の奥底から外部へ縦横に舞台を行き来する不思議さがあるが、結局のところこの歌集の前半にあるようなこれらの歌は、後半で、自身の身体の一部が外部化されるという現象の究極の形、つまり子育てにテーマをうつし、さらに繊細な歌群を展開していくことになる。