たわみやすい歩道橋のうえ大声にうたうたうなり誰もいないから

江戸雪『百合オイル』
(砂子屋書房、1997)

東京に暮らすようになって、驚いたことのひとつは(東京といっても、北多摩と呼ばれるエリアなので、むしろそのあたりの地域性?)、道を歩いたり自転車に乗ったりしながら大声で歌をうたっている人にしょっちゅうであうということだった。飲んだ帰りに気持ちよくなったオッサンとかではなくて、むしろ若い男性や女性が昼間から歌をうたって道を行く。特に自転車に乗りながら歌っている人というのは多くて、もしかすると自転車を走らせながらうたう歌は周囲に聞こえないと思っている? 別に文句を言いたいわけではないのだけれど、私は音痴であるために他人に自分の歌(もちろん短歌ではなくて歌唱する歌のことです)を聞かれることを警戒するから、そのおおらかさに衝撃を受ける。

掲出歌にはしかし、そうやって歌う人のこころのありようが詠みこまれているように思えおもしろかった。これは地上を歩いているのでも自転車でもなく、歩道橋なのだけれど、歩道橋のうえには「誰もいないから」と自分に言い聞かせるその言い訳のあやふやさは、自転車に乗って歌をうたうというのともしかしたら似ているかもしれないとも思う。いやでも、「大声で」うたったら、歩道橋の上だからこそ遠くまで響いてしまいそうにも思うのだけれど……?

この歌は「ぐらぐら」と題された一連のさいしょの歌。うたいながら歩く歩道橋が「たわみやすい」といっているのだが、これをふくむ初めの三首は、連作のタイトルどおりそれぞれに不安定さが詠みこまれている。

たわみやすい歩道橋のうえ大声にうたうたうなり誰もいないから
私ならふらない 首をつながれて尻尾を煙のように振る犬
大型のトラックせまき道を過ぐあたりの輪郭ぐらぐらにして

歩道橋にあがったとたん、その橋桁の部分がほんとうに「たわみ」はじめたら恐ろしいのだが、たしかに、歩道橋というものは、上を歩いてみると思いのほか揺れると思うことはある。「たわみやすい」という微妙な表現は、歩いてみるとあんがい不安定で、ちょっとやそっとで崩れはしないのはわかっているが、なんだか心配になることがある、そんな人生というものの性質をかすかに語っているように見えるのだった。

ここにひいた三首は、歩道橋から見えた光景や、散歩の最中に目に見えたもの、感じたことの軽いスケッチのようでありながら、やっぱりどこかで人生を語っている。わたしなら尻尾は振らない、つまり、ぐらぐらせずに自分を生きるという不服従の宣言、それでも往々にして大きな邪魔者がとおりかかってしまう人生というもの。ちなみに四首目にくるのは、

いじめには原因はないと友が言うのの字のロールケーキわけつつ

で、舞台の設定はここで屋外から喫茶店のようなところへと切り替わりつつ、テーマとしてはいじめや人間関係の問題へとゆるやかに繋がっていく。たしかに、いつなに者に遭遇し暗転してもおかしくない、そんな人生を歩いていく自分を勇気づけるためにも、私はわたしの世界にいるのだ、かかわらないでくれと周囲を威圧するような気持ちすら込めながら、人は大声でうたって歩いていかなければならないのかもしれない。

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