渡辺松男『寒気氾濫』
(本阿弥書店、1997)
もちろん「君」がシャワーを浴びているようすを三人称的視点でうたっているのだとは思う。が、私はこれを一読して、性愛の、つまりは射精のイメージを持ってしまった。いかんいかんと思いながら、歌集の次の歌に目を走らせると、それはこともあろうに、
山よ笑え 若葉に眩む朝礼のおとこらにみな睾丸が垂る
「睾丸」である。なので、掲出歌への私のひどい連想も、許してほしい、というか、しかたがないじゃないか、というか、作者自身だってきっとそういう読みを想定していたのではないかと考えたくなってしまう。「山よ笑え」の一首は、山中のどこまでも青々と視界に広がる自然の中にむさくるしい「おとこら」が配置される。昔読んだ三島由紀夫の『沈める瀧』に描かれた、雄大な自然とダム建設に従事する男どもの対比が脳裏によみがえったりした。
一方で、「水道管」に始まる掲出歌には都会的なイメージが付きまとう。「君」がシャワーを浴びているそのとき、「君」自身は、自分の頭上へと水道管がどのような経路をたどってどのように枝分かれをしながら水をとどけているのか、知る由もない。その源流である浄水場がどこにあるかもたぶん知らないように思う。山! 男! という単純明快さに比べれば、都市というのは非常に複雑にできていて、すべての都市住民は自分の棲む町のシステムすらほとんど理解していない。ただブラックボックスに貼られているらしい管を通って水が届けられるのみだ。
精液のもとになるものを精祖細胞というそうだが、これは男児が胎内にいるときから身体の中にそなわっていて、長い年月を経て射精される。長い長いブラックボックスの過程をもっていることが、水道のシステムにも似ていいて、それが掲出歌に射精をイメージしてしまうことの理由のひとつだろう。しかし、人体も都市も誰もすべてを把握できないほどに複雑である一方、人体の複雑さは人間が作ったわけではないゆえによけいに不気味に思えてくる。人間が悲喜こもごもを抱えながら主体的に恋愛や性愛にいそしんできたつもりでいるのだが、それは実は遠い昔に人間ではない誰かが書いた設計図をなぞっているにすぎない。単純に見えた「山よ笑え」の歌の「おとこら」の睾丸。どんなにすがすがしい舞台にいても、実はひとりひとりが不気味なブラックボックスをぶら下げて生きている。
(そういえば三島の『沈める瀧』も、ただのむさくるしい男の話ではなく、主人公は都会的なモテ男で、そんな彼が山中で「人工の愛」の可能性を探る、つまりはその〈誰か〉の仕事に挑戦する筋書だった)
石の上の蜂いっぴきの死へそそぐ四十五億歳の白光
家族ああ昨日とまったく同位置にポットはありて押せば湯がでる
おそろしきひたすらということがあり樹は黒髪を地中に伸ばす
私たちが生きやがて死んでいく地球に、その手のブラックボックスは(たとえばここに引いた一・三首目のように)いくらでもあって、いったんそれに気づきはじめると恐ろしくてたまらなくなる。二首目は今日の掲出歌と対比するとおもしろい。恋愛のさなかのように「君」がシャワーを浴びていることにさえ神秘性をただよわせる掲出歌にくらべ、流れのない水をためていつも同じ位置にあるポットに「家族」を象徴させたこの歌。ここには不可知という気味の悪さはないけれど、神秘性もない。「家族ああ」と言いたくなるほど、家族とはどうしようもなく退屈だ。
*引用は現代短歌クラシックス版(書肆侃侃房、2021)によった。