『硝子のあひる』浦河奈々
時間が人生が止められないことをまずは思い浮かべる。たとえば私は散歩が好きだ、徒歩の時間と空間はぴったりとかみ合って体の外側を等速に流れていく、その歯車に思考も重ねて意思を持って眺めれば世界に発見がいくらでもある。生涯と世界が重なり合った小さな時間を着実にこつこつと使っている感じがする。時間を気安く「流れ」に例えることを仮に窘められても簡単にやめられない。
外の時間と、転んだ人の時間がこのとき激しくずれてしまったようにこの歌では見える。ただ一時停止しただけではなく、「転びたるまま」とあるために、転んだあとも止まった時間はそのままの形でとどまり、一方では「転びたる」に含まれる過去の性質が時間に質量を加える。
こうやって一種の形となった時間に対して娘は「小石」であり、二人は取り残されたようになって、流れるほうの時間としての雨に打たれている。娘という小石に「老い父」が躓いたかのように書かれているが、まるで娘=小石は初めから時間の外にあり、その同じ場所に父もやってきたかのようにも見える。しかしながら娘はすぐに手を伸べることもなさそうである。時間は止まっているのにこの場所はひどく多くのものを含んでいる。「多くのものを含んでいる」と私はいま書いたけれど、この書き方が味気ない先読みに見えてしまうならばそう読ませる作品の力のほうにあらためて注目したほうがよい。「静止する」をもう一度分解してみると、じつはこれは単に動作が止まっただけなのに、まさに〈時が止まった〉かのようなしんとした印象が舞い降りてくることがわかる。それに「老い」とすぐさま続くので、今度は人生の比喩の中で時間が急加速している。老いた時間は、速さも、遅さもすべてを持っている。たまに見るようなストロボの中を事物や人物が断続的に動くインスタレーションや、ダンスの緩急を想起させる。
一つ前の歌は
この色を見て蘇れ点滴の父のベッドに広げるマティス
である。
歩くというより、踊ろうとしたのだろうか。雨だれに耳を澄まし、感じ取りたくなる。