寺井奈緒美『アーのようなカー』
前回紹介した斎藤美衣の歌が路上に落ちているものだったので途上に落ちているものつながりで寺井奈緒美のこの歌について触れる。
斎藤作品では落ちているものがレシート、寺井作品ではネギ。ものには落としやすいもの、落としづらいものがあるはずで、レシートはまさに落としやすいものの代表格だと思う。レシートには積極的な利用価値があまりない、と言ってしまうと語弊があるのかもしれないけれど、ない。また、小さな紙なので落としても気づかない。それに比べるとネギは利用価値もあり、落としたら気づく確率が大きい。レシートを落としても探しに戻ることはないと思うが、落としたのがネギだったら来た道を引き返すような気がする。
もし路上でネギを発見したら、まず思うのが落とし主のことだろう。ネギを失くして困っている人がいるかもしれない。それでは目立つように立て掛けておこう、となるのが心理の流れになる。一方掲出歌ではその辺りの心理の流れが見られず、ネギはごくスムースに「冬の尊さ」として立て掛けられる。「落ちていて」と「冬の尊さとして立て掛ける」の間に躊躇が見られず、その躊躇のなさはそうするのが当然だという意識となって一首にただよう。落とし主のことはどうでもよく、ネギが当然のごとくこの冬のひとつの記念碑のように扱われているところにこころを掴まれる。ネギは本来立っているものである。あるべきものの姿に還そうとする気持ちももしかしたらあるのかもしれない。また、このネギは余分な葉っぱを適切にカットされ、水でしっかり洗われた、白い部分が光っている一本の棒のようなネギだろう。一首のまっすぐな言葉の選ばれ方からそういった形状も垣間見えてくる。
大根を探しにゆけば大根は夜の電柱に立てかけてあり
花山多佳子『木香薔薇』
同じようなシチュエーションにこの大根の歌があるが、こちらは記念碑というよりもお地蔵様のたたずまいを見せているのもネギと大根の存在の相違が表れているようで面白い。
ネギの歌に戻れば、ネギを落とした人は来た道を引き返してこの立て掛けられたネギを見つけ、親切な人が分かりやすいようにしてくれたのだと思うのだろうが、まったく違う。この歌は他者と他者とのあいだに入った意識の罅を見せながら、一方で現実は罅がないかのように進んでいく。