ホモ・サピエンス風邪ひきの鼻をすすりあげ春の障子に影うつしゆく

『吟遊詩人』井辻朱美(『井辻朱美歌集』所収)

……あなたは誰ですか?
この問いは幾億通りもの答え方を持っていて、最大公約数となるのが「ホモ・サピエンス」であることはたぶん疑いがない。この作者に紡ぎだされる世界像、たとえばよく知られた

かがやかな夏の木立をかなでる風よ 宇宙飛行士アストロノオトの夢は流れて

の地平の上にまずは一人の「ホモ・サピエンス」が立っている。この人は幹線道路を流れるヘッドライトや、そびえたつビル群のある都市空間から宇宙空間までを切れ目なく認識して、その先に、宇宙服の大がかりなヘルメット越しにせよ、今にも触れることができそうなほど星を間近に見たことのあるような感じを胸に切なく、わくわくと、かかえている。
どうにもこの場にふさわしい「ホモ・サピエンス」がたった一人とは言い切れなさそうなのが、「障子」のためだろうか。よく影絵がクイズにもなるように、障子越しであればその人がだれかは簡単にはわからない。Aという人物がBやCという人物を装うことがあるかもしれない。なぜならその人は「ホモ・サピエンス」だから。私であっても、あなたであってもかまわない。私はあなたであって、あなたが私であるという循環の駆け引きが、障子の向こう側とこちら側でにわかに繰り広げられる。和紙のぼんやりとした素材にほの明るい春の光で透かされた影は幾重にも重なって、わずかだけ輪郭をぶらしている。手がかりがほとんど乏しい中でAかBかC……をかろうじて区分けるのはかすかな鼻をすする音となるのだが、この「風邪」というのも誰だってかかる(common disease)であるゆえにむしろ人類の普遍や歴史を強調しているかのように見える。
けっきょく、今度は動作主となったこの人は、何だかわからない意思を持ち、障子越しに立ちまわっていることだけが明らかで、その意思や動作の具体的なところは想像するしかないのだけれど、その想像はなんだか奇妙に生々しくて脳を、記憶をじかにくすぐってくる。熱っぽく目をこすり鼻をすすった記憶、この記憶は私だけのものだ、とほんのりと実感するときに、「ホモ・サピエンス」という把握はぐっと息苦しくて愛おしくなる。
さあ、この街からもう一度宇宙へ飛び立とう。

<ふたたび>と<けつして>の間やすらかに夜の舟は出る 僕を奏でて

※本文中の引用歌はいずれも『地球追放』より。

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