山中智恵子『星肆』
『星肆』の歌は、気迫と茫然に満ちている。亡き人への呼びかけや物思いは絶えることなく繰り返され、ないけれどあるもの、が歌の世界にとどまりつづける。『星肆』を読んでいて強く感じるのは、ないけれどあるものをとどまらせることと引き換えに、自身をあるけれどないものに変容させている、ということである。
この歌からは激しい茫然が感じられる。上句で心情、下句で光景というオーソドックスな歌のかたちを表しながら、一首がひとつの結晶にならずむしろ歌の上下が互いにほぐれあっていくような拡散の感触がある。結句で「わたし」の存在が明確に示されているにもかかわらず、重心がそこへ乗らず立葵とわたしが同じ茫然の質を持っている。さらに言えば、茫然という内面のみならず夜の闇にまぎれた立葵もわたしも表面上の存在を暗く鞣された状態にある。夜の庭に輪郭を失ったような立葵とわたしが立ち尽くす。祈りというのは明確なわたしがあってはじめて達成されるものであるけれど、この歌では立葵やわたしを含めた庭全体が祈りの箱になっているのだと思われてならない。
痛恨なのはサイトに表示されるとき横書きになってしまうことで、この歌は縦のラインが大切な歌である。立葵の茎の直立、立ち尽くすわたしの直立は縦書きで表されることで祈りと順接する。横の祈りというものもあるのかもしれないが、この歌は縦の祈りなのだと思う。
陽はしづみひとひはくれて夏つばめ帰らざる河うたひてゆけり
帰らざる河は時間やそれにまつわるかなしみごとと綯い交ぜになって平面を一方向に進んでいくけれど、夏つばめは平面を超えた立体のなかをきらきらとして自由に飛ぶ。ここにはわたしという存在は見当たらない。わたしが夏つばめに成りかわっているわけでも、夏つばめに何かを託しているわけでもない。わたしという存在はそのときしずむ陽も夏つばめも帰らざる河も容れたひとつの空間としてある。あるけれどないものに自身を変容させることについてのひとつの回答がここにある。