掌で彗星を止め悲しければ悲しいほどソムリエであれ

『緑と楯 ロングロングデイズ』雪舟えま

言葉のことを最高にずるだな(つまり、好きだ)と思ってしまうのはそいつがしかつめらしい顔つきをしているのに時代や場面に応じてたいした抵抗もなく微妙に少しずつ意味を変えるところ、それが言葉自身の定義にすっかりと含まれているところ。〈をかし〉も〈あはれ〉も、今聞くような意味ではないらしいけれど、今の言葉で説明されてもそれが当時の〈をかし〉や〈あはれ〉を過不足なくそっくり置き換えるものなのかどうか。なんとなく、辞書の中身を手掛かりに周辺の文章や単語をたどり、最終的には自身の気持ちの近しいものに置き換えて納得するしかないような気がする。それほど古い言葉でなくとも読むときや話すときは似たようなことを無意識に繰り返しているはずで、そんな試行の繰り返しによってなんとか言葉が通じ、伝わってきたということに、言葉を越えた言葉でないと言い尽くせないとでもいうような不可解な興奮がある。
言葉とは手段であり、同時に表現である。この二つを兼ねるにあたり「自身の気持ち」はおそらく不可欠で、しかしやっかいな作用をもたらしていること。
「緑と楯」は言葉の中だけに現れる架空の二人「兼古緑かねこみどり」「荻原楯おぎはらたて」の話であるから、ここにほんらいは自分の経験や心情を重ねることはない。言葉だけの紙の上のまっさらな感情に対して、それを読む喜びに、ふと「ソムリエ」の技術が添えられている。
「悲しい」は誰にでもとくに覚えの強い感情である。ただしその軽重や濃淡はさまざまであるだろう、ということもまた誰もが知っている。けれどあのときの悲しみも、このときの悲しみもなんだか見分けがつかない、太刀打ちができない。暗色の瓶に沈んでゆく澱を見つめ、深く考え込みながら……「悲しければ悲しいほど」にいくつもの悲しさが込められて、しかしそれは書かれた紙の上のできごとであって経験則は引きはがさねばならず、「ソムリエであれ」と投げかけられるので私はいまここで初めて「ソムリエ」になったような気がする。散々見知った悲しみをたった今初めて鼻でかぎ分ける。葡萄型のバッジをきらきらと胸に誇らしく輝かせて、初めての悲しみを、初めて味わい尽くすような――フィクションを頭いっぱいに認識するよりもずっと素早く感情がここに飛び込んできて、それがあまりにもまっさらであることの不思議。

この速さを「彗星」が招いているとわかることすら、遅れてやってくるのだった。

おれに似たケーキって何? ザッハトルテ。時には胸が苦しいほどに
もう一度☆がれ何度でも鮭べ夜空の網に二人でかかれ

この「ザッハトルテ」は、「おれ」と意味が重ねられて喜びと苦しさをたすき掛けにしている。「☆がれ」(欲しがれ)・「鮭べ」(叫べ)は、表記のほうが二重うつしになっている。言葉は、言葉だけになればなるほど意味を深く増すようで、少しずつ顔つきを変えながら、いつかもう手の届かない遠くにいってしまうのかもしれない。

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