廣野翔一『weathercocks』
この一首は「Truman」という連作のなかにあり、「Truman」とは原爆投下時のアメリカ大統領であったハリー・S・トルーマンのことである。
ヘッドホンと戦犯の組み合わせから想起されるのは極東国際軍事裁判の判決言い渡しの場面だろう。A級戦犯の風貌や直立した姿勢と大きなヘッドホンと場内の粛々とした雰囲気が三つ巴のミスマッチを引き起こしている場面である。戦前戦中日本の葬儀のような場面で、核となる人物たちがヘッドホンをしている状況はそこだけを切り取ればシュールであり、シュールだからこそ印象にも深く刻まれる。
現在のヘッドホンから聞こえるのは、だいたいが「いい音」でこの歌のちちやおとうとの耳に流れているのも何かしらいい音の音楽だろう。それが「戦犯のごと」で一気に変わる。いい音の音楽はぐにゃりとねじれて生か死かの宣告が耳に流れる。戦前戦中の日本人と現在の日本人は同じ民族であってもかなりの隔たりがあるというのは個人的な感覚だけれど、思考も風貌もおそらくまったく違う。が、男たちとヘッドホンが結びついたとたん80年前の日本人男性と深く重なっていく。日本人男性の80年を圧縮してみせるものがヘッドホンだというのもなかなかシュールなことだと思いつつ、ヘッドホン誕生の地がアメリカだという事実を知ることで何となく合点がいってしまうような気になるのも興味深い。
表記の面で言えば「ちち」や「おとうと」があえてひらがな表記になっていることで、自身の肉親である父や弟を超えて日本人の肉親である「男たち」へと意味が広がっていく。また、そうすることで戦中における「成人男性以外の人格の見えなさ」もまた見えてくるように思われる。「上空」は今からすればただの空で、なにげなく見上げたりする場所だが、80年遡った「上空」は恐ろしいものが降ってくる、怯えながら見上げる場所であった。文字として表れた成人男性たちの代表である戦犯は直立し、文字として表れなかった人びとは「上空」をはさむ余白のなかを姿を持たないまま逃げまどう。「ちち」「おとうと」がひらがな表記であるところ、外見上の相似を示すにとどまらない一段深い眼力をこの歌に与えている。