「散歩している」ぷくぷく
第七回笹井宏之賞大賞受賞作より。
伏線として九首まえにこの歌がある。
その鳥はさえずり方をかえたけど寂しそうさはかわらなかった
現実に目にする風景に根差した思索や実感が多く取りあげられる連作であるが、この歌は少し抽象度が高いように感じる。「その鳥」が「さえずり方をかえた」とはどのようなことなのか、そこにはこれ以上の説明が割かれていない。家の中の鳥かもしれないし、街中の鳩でも、鶺鴒のようなものでもあるような気がする。説明されるのはむしろ「寂しそうさ」が「かわらなかった」ことのほうで、この歌の具体は「寂しそうさ」のほうである。家の中でも、街中でも変わらない寂しさを持っているのが鳥であり、その鳥のような寂しさがここにありありと感じられる、とする把握。先に挙げた鳥がそれぞれ本当はどのように鳴くのか私には説明ができないが、その説明のできなさが、いくら「さえずり方」を変えてもどうしても「寂しそう」な鳥の様子とシンクロする。
さて、そうしてどの鳥も「寂しそう」である中、種明かしとしてはその原因が祖先の恐竜にさかのぼることがわかる。恐竜はあらゆる力をもっている過去の地球の覇者。恐竜にさみしさの力も備わっているのはすべて過ぎ去った過去であるからで、恐竜はしかも、そうなることを予期するかのように自ら望み念じて「さみしがる」。中でもこの特定の力をもったもの、力に耐えられる強さをもったものだけが形を変えても生き残り、鳥になったということは、かすかな皮肉――これはもう慰めと見分けがつかない――でもあるだろうか。「ということにして」で話者の(ほらね)という調子に急速にピントが合い、テーブルに差し向かう現代の時間、散歩の時間に引き戻される。鳥や恐竜と人間との無関係さと、何か関係するきざしが、同時にテーブルの上にあって、わずかに光を帯び、光についてはすぐさま消えてゆくかもしれないが、光の痕跡、それは現実にはありはしないけれど文字によって心にはくっきりと刻まれうるものは、鳥に感じる「寂しそうさ」のように、心に長く残っている。