パチンコを遊ばぬわれはパチンコ屋過ぎりて灯る小窓を怖る

島田幸典『駅程』

 

出だしから面白い歌で、「パチンコを遊ばぬ」の「を遊ばぬ」はパチンコに少しでもなじみのある人間が選ぶ動詞、助詞ではないと思う。「パチンコを打たぬ」「パチンコをやらぬ」「パチンコに行かぬ」という定型句を避けながら、その先には「パチンコで遊ばぬ」が立ちはだかっているのだが、それも回避しての「パチンコを遊ばぬ」。「パチンコを遊ばぬ」には得も言われぬぎくしゃく感がある。この歌の主はほんとうにパチンコから遠いところにいるのがこの動詞、助詞選びから見えてくる。初句+αの「パチンコを遊ばぬ」だけでご飯三杯はいけてしまうような味がある。

パチンコ屋は彩りといい音量といい人間の欲望といい、あらゆるものが過剰に剝きだされた場所というイメージがあって、この歌のパチンコ屋を過ぎる人の目にもそれはきっと映っている。奇妙な過剰さと距離をとりつつそこを通り過ぎてゆくと、灯る小窓が目に入る。ここは言葉の刈り込みがかなり深いのだけれど、パチンコ屋のそばにはかならず景品交換所という場所が衛星のように存在する。殺風景な小屋の奥にはごく小さい窓がありそのさらに奥にはうっすらと人影が見える。剥きだしのパチンコ屋とは真逆の何重にもしまわれた場所である。太陽と月のような関係性が路上に展開されているのだが、きらびやかなエネルギーをすべてパチンコ屋に捧げたような交換所のありようは怖ろしくもある。これが完全にしまわれているのであれば気づくことなく過ぎれる。が、交換所という場所はしまわれながらも点灯しているし、稼働していないように見えて、奥には人影が動いている。もう使われていないかのような外観をよそおった小屋の、息づかいとしての「灯る小窓」は、それは怖い。

『駅程』の歌は言葉のさばきが潔くかつ狂いがない。言葉の刈り込みが深いのに定型の四隅にまできっちりと現象が届く。定型にまつわるあらゆる可能性を手放しながら、ひとつの可能性を極限まで深めようとする意思が表れている。
ここまでで終わろうと思ったが、勢いがついているのでもう一首。

 

マルボロを取らんと動く腕あれば腋の湿りはキオスクに見ゆ

 

これもぎりぎりまで刈り込まれていると思う。キオスクという狭い場所には効率よく整然と商品が並べられていて、店員もはめ込まれたようにそのなかにいる。そして煙草ははりだした上方の棚に置かれている。なので店員は注文がくれば腕を上げて棚に手を伸ばし煙草を掴みとることになる。この歌の驚くべきところは一首に必須のはずの「上げる」という動詞まで刈り込まれていることだろう。腕を上げる→腋の湿りが見える、というなりゆきを「動く腕」で抑えておいて、「上げる」という動作は「キオスク」という固有名詞にほとんど含ませている。固有名詞に動詞の働きをさせていて、これが刈り込みの極地か、と驚嘆する。引用二首のモチーフは景品交換所、キオスクとそれぞれ小屋だけれど、刈り込む技術とモチーフの相性というものもあるのかもしれない。
挙げだしたらきりがないが、何首か引用して終わる。

 

後衛がふいに前線にあらわれて球技のことといえど羞しき
資料読み止めて凭れる窓のそとぎりぎりを静岡の茶畑が飛ぶ
白き紐耳より垂るる人はいてエッグサンドをうつむき食えり
一分前に発ちたるバスがまだ見えて一分の間を距離にし見しむ
高層のビルをまだらに点る室眠りに夢のまじるがごとく
夕暮れのバスにほどけばネクタイが首のめぐりを擦過する音

 

 

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