来るひとの骨のよごれが見えてしまふ果樹園を抜け帰つてきたら

『ドッグイヤー』小田桐夕

「骨のよごれ」を通常目にすることはないのに、どこか説得されてしまう。レントゲン写真を思い浮かべても骨は白く硬そうだが、かたや体の部位にみっちりと匿われた骨はきっと血に満ちて湿り気を帯びた組織なのだろうという感覚もある。骨は汚れていて然り、という体感が私の場合はやや優勢だろうか。
それでもなお、「見えてしまふ」ことは普段ではありえない。先のレントゲンであってすら、骨の形状を見せてくれるだけで、表面の汚れにたどり着くことはない。この人は骨をあきらかに透視していて、しかも、するどく説得されてしまう。まずその要因となるのは初句の「来るひと」であって、この遠くからやってくる、はじめに視界に入って、じょじょに大きく近しくなり、ディテールが見えてくる様子、その延長に「見えてしまふ」という感覚が自然に訪れる。それから「果樹園」が巧妙であって、ここもやはり生い茂った木の枝が視界を狭めるゆえに「見えてしまふ」感を強化する場所であるだろう。

ふと考え込みはしないか。果樹園を「抜け」「帰つてきた」のは誰か? 「来るひと」だろうか、それとも骨のよごれを見通す者だろうか。前者であるなら、がさがさと葉擦れの音をこれ見よがしに立てながら林の奥からそのひとがやってくる。後者であるなら、みずからの肩や二の腕や足まわりに何度も木の枝が接触し、草を踏みしめ、その繰り返しの経験がじょじょに魔力のように身体にしみわたって、帰ってきたころにはもう透視の力を獲得しているといったところか。前者のほうが自然なのだけれど後者の体感があまりにも捨てがたく、双方のパラレルな世界を互いに覗き込むことによって、ちょうど皮膚を通過して骨を見透かすような、到底味わったことのない自覚が補強される。「帰つてきたら」の「ら」がパーツとしては非常に小さいけれど去り際に振り返ってこちらをずっと見つめている。

ながくながく地下を通つてかへりゆく今夜の月が見えないところ
のぞいたらおそらく見える傷のこと河と呼ぶのは傲慢ですか
ゆふかげの郵便受けをひらきたり封のしろさは小鳥のねむり
川辺だな。きみと出会つた八月のをはりをずつと歩いてしまふ

〈見え方〉に対するこうしたスタンス。「地下」を通り抜けたすえに月は見えず(それは悪いことではなさそう)、いっぽうで、わざわざ覗き込んで見える傷について、河と呼ぼうと呼ぶまいと傲慢であることに苛まれているように〈見える〉。

「封のしろさは小鳥のねむり」という表現はさほど素直な接続でないし、「川辺だな。」にもやはり慎重な姿勢があると思う。川を直視することをためらい、代わりに全身で受け止めて感じているだけのような慎重さゆえに、「ずつと歩いて」いる足は川辺の隅々を見尽くすまで止まることがない。五感のうちでも強烈な視覚という感覚と言語との結びつきやすさを捉え直し、網を薄く張り直しているような、そういうことを思った。

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