真夜灯し天体図開くしばらくを不眠と言はず贅沢と思ふ

百々登美子『荒地野菊』

 

眠る間際の時間である。ほんとうならもう眠っていなければいけない時間になってもまだ目は冴えている。日中に活動して夕飯を食べたあとつかの間の息抜きをして眠りに入るはずだけれど、眠りの時間になっても眠れない。多少の焦りは持ちつつもこの時間に人は音楽を聴いたり、テレビを見たり、読書をしたりする。この歌では天体図を開いて眺めているわけだが、気持ちの焦りとはうらはらにこれは贅沢な時間であると思う。天体図を開くことが音楽やテレビや読書よりも不思議と贅沢に感じられるのは、そこに無為がより多く含まれているからではないか。この歌ではそうした無為の時間がこのうえなく美しく詠まれている。

真夜中の暗さ。その暗さを打ち消す部屋の明かりのなかで、天体図の闇に浮かぶ星の光を眺める。暗さと明るさが互い違いに織り込まれながら、無音に近い時空がそこに出現している。眼下の星空を眺めているその頭上にもおそらく星空はひろがっている。眼下と頭上とふたつの星空に挟まれる時間を思ってこちらもうっとりとしてしまう。なにより夜更けに天体図を開くことは、肉体を動かさずとも実現できる精神の旅でもあっただろう。次のような歌と併せて読むと、その旅心がよりこちらに迫ってくる。

 

いつよりか旅などなさず高空の鴨の雁行消ゆるまで佇つ
日常のなかにも旅はみつかると説く一文を傍らに置く

 

『荒地野菊』は百々登美子の遺歌集だが、その作品は怖ろしく思われるほどに最後まで明晰さが貫かれている。

 

「ゐますか」と夕暮の戸を叩かれてよはひの上の切崖おもふ

 

誰かが訪ねてきた。家の扉をたたきながら「ゐますか」と声をあげている。この「ゐますか」を在宅ですか、家にいますか、という問いかけであると理解しながら、あなたはこの世にいますか、という問いかけなのではないかと捉えなおしている。年齢を重ねることで高さを増して尖っていく崖のイメージと、そこに立つときの足元のぐらぐらとした眩暈のような感覚は死に隣接しつつもまぎれなく生の側のものであり、捉えなおしの機敏さも相まって切れば水がほとばしるような一首であると思う。この他にも印象に刻まれる作品は数多く、そのいくつかを引用する。

 

湿原は一点の灯もなきところ見にゆけといふくらやみゆゑに
ひとりにて逝けば孤独死とたはやすく片付けてゆく無礼をみをり
塩むすび一つを板の上にのせ売る人を見き終戦のあけ
逃げたしと思ふ日に来る絵葉書の修道院の燭のしづけさ
無力ゆゑ犯さずにすむことあらむ苦みさぐりて八朔を食ぶ

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です