用もちていでゆく妻が夏の日の照る草むらをへだてて見ゆる

佐藤佐太郎『帰潮』

 

戦後まもなくの昭和二十四年に詠まれた歌で、『帰潮』のあとがきを読むとこの時期の佐太郎は図書出版をやったり養鶏をやったり新しいことに挑戦しつつ、ことごとく上手くいかなかったという。妻が何かの用事で外出する。何の用事かは特段描かれておらずそれほど大した用事ではないのだと思うが、その外出を眺めている。家の中か外かどこから眺めているのか断定はむずかしいが、個人的には家の中からと読んだほうがこの歌の魅力は増すのではないかと感じる。どちらにしても妻を見送っているようでもあり、妻を含めた景色をただ眺めているだけでもあるような微妙なニュアンスがあって、そこについ立ち止まってしまう。草むらをへだてているので、妻のすがたは少し小さくなり、また少しぼやけはじめているだろう。歌がもっているニュアンスからすれば、声をかけたり手を振ったりするような運動は起こらずただ小さくぼやけていく妻を眺めている。また、光の具合も特徴があって、夏の日差しの草むらが印象的であればあるほど眺めているほうの暗さが色濃く体感される。家は暗さのいれものとなり、ぽっかりとその夫を入れているし、夫のからだそれ自体も埴輪のようにぽっかりとして見える。この歌に関して言えば、個人の目が眺めていることと家そのものが窓を通して眺めていることの差異がうすい。読もうとおもえば用をもたない自身に対する手持ち無沙汰な気持ちや不甲斐なさのような気持ちを読むことができるのかもしれないが、そうした気持ちは風景によって反射的に表されるというよりも、風景によって希釈されているという感じがより強く、風景に自身の気持ちも茫漠として溶け広がってしまったような感触である。掲出歌の次の歌は

 

夏の日のながく寂しき昼すぎに玉蜀黍たうもろこしの花が散りゐる

 

であって、歌に詠まれた風景とは別にやはりぽっかりした埴輪の体を感じる。夏の昼過ぎのとうもろこしの花の散りざまに遭遇することで、心身に化学反応が起こるわけではなく、そうした化学反応、ここで言えばそれは「寂しき」になるのだが、これはあらかじめ風景のほうに織り込まれている。この歌で心身の側に起こっていることは、あらかじめ寂しさを織り込まれた風景の身体内部での映写である。ぽっかりとした埴輪の体は映写室となって目から取り入れた風景を体内の暗がりにそのまま映し出す。佐太郎の作品の全部が全部こうした作りではないけれど、ここにあげた二首は少なからず化学反応が起きないことで目の表側と裏側の風景がゆがむことなく合致しているのだと思う。

 

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