みずうみに泳ぐおのれをおもうとき海よりずっと臆病になる

小俵鱚太『レテ/移動祝祭日』

 

この歌を読んだときにすっと差し込むように「わかる」が来たことをまずは言っておきたい。ただ、何をもって「わかる」と感じたのか、海のほうが波立ちも激しく、潮の満ち引きによって沖に流される危険もあり、みずうみに比べてそこに棲む生物も鮫やくらげなど危害を加えてくる可能性が高いものも多い。みずうみはその反対に波立ちが少ないし、潮の満ち引きもなく危険生物もぱっとは思い浮かばない。また、きっちりと陸地に囲まれた有限の安心感もある。みずうみのほうが臆病になる要素が少ない。こうして「わかる」の前提にあるものを精査すると、ほとんどが「わからない」をみちびくはずのものばかりである。ひとつ言えるのは、個人的経験だけを述べれば海で泳いだことはあっても、みずうみで泳いだことはない、ということである。さらに言えば、みずうみに行ったことは何度もあって、その水に手を浸したことも一度ではない。一歩踏み込んで泳ごうと思えば泳げる状況にありながら、そのたびごとに水際に踏みとどまってきたということになる。端的に言って、未経験のことを経験しようとするとき人は臆病になったりするものだが、それに加えてみずうみに行き、みずうみで泳ごうと思えば泳げたのに結局は泳がなかった経験が多ければ多いほど、「みずうみで泳ぐ」ということの手前を遮る目に見えないレースのカーテンのようなものが一枚ずつ増えていくのではないかと想像する。

経験しなかったことの何重ものレースの向こうにへだたったみずうみは透明度を増す。「神秘のベールに包まれた」という慣用表現があるけれど、何かに包まれ、また遮られたものはどこかの地点で透明であることに置き換わるのだと思う。その透明はやがて禁忌や聖域といったものにつながっていく。わたしという一読者がこの一首を「わかる」と感じたのは、手を浸すまではできてもそれ以上踏み込むことのなかった経験が生み出したみずうみの増幅された透明度やその聖性に対する畏れだったのだと時間をかけてたどりつく。

 

金木犀を嗅ぐすずしさにおもいだす河合塾に通っていたこと
善人じゃないと気づいて人生はようやく冬の薔薇に追いつく
ベランダへ風雨の運んだ砂つぶのこれが塩なら豊かになれる
複雑に散る木洩れ日をすごろくのように歩いて夏だけのこと

 

『レテ/移動祝祭日』の作品群はこのようにどちらかというとすっきりした姿をしているのだけれど、さりげなく入った亀裂に焦点を合わせるとき、ふとクレバスのような深さを見せてくる。じっくりと時間をかけて読みたくなってしまう歌のかずかずである。

 

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