佐藤弓生『モーヴ色のあめふる』
この歌の首には痛みがない。モチーフの背景にあるのは人形だけれど、その人形もぬいぐるみのように頭と胴体が一体化しているものというよりもソフトビニール製のキューピー人形のような頭と胴体がもともと別々に作られた人形である。同じ人形でもぬいぐるみの首を胴体からはずそうとすれば痛い。非生命体であってもそれは痛い。キューピー人形であれば少し力を加えればぽっと音を立てて気持ち良く首が抜ける。この歌にあるのは痛みではなく、そうしたある意味での気持ち良さだろう。「抜けてゆきそうな首」なので実際に抜けてしまった首ではないとしても、一種見せ消ちの作用が働いていて読み手のなかにはすぽーんと抜けていった首の感触が残る。歌のかたちのほうに目を向けてみても、「青空」は頭であり「よくよく嵌めておかないとこのまま抜けてゆきそうな首」という胴体からすでに一字分空中を飛んでいる。「あおぞら」という初句四音のかなりイレギュラーな字足らずが、分離の印象をより強めていることも言い添えておきたい。これが「青空よ」とか「青空へ」だったりすると、助詞が人体の神経やぬいぐるみの糸の役割を担ってしまってかすかに痛みが出てくるはずである。
また、この歌は「青空よ」とか「青空へ」であったときには、「よ」や「へ」によって歌のなかの人体へ重力の整っていく感じが出て、一首はあくまでもその人体がする自問自答なのだというストーリーになる。しかし、助詞なしのいきなりの「青空 」の場合、見えざる力により読み手であるわたしの顔が強制的に上を向かせられる感じがする。そうなると直後の「よくよく嵌めておかないとこのまま抜けてゆきそうな首」は自問自答の範疇をはみ出し、読み手に対する天の声にも聞こえてきて「わたしの首のことを言っている?」となったりする。もちろん基本的なストーリーは自問自答のほうにあるのだと思いつつも、やや怖い不思議な気持ちにさせられるのである。
ぜいたくに生きとおせたら 死に方のメニューにこころうばわれながら
ふる雨にこころ打たるるよろこびを知らぬみずうみ皮膚をもたねば
死へのあこがれと感覚を持たないものへの心寄せはかなり近しくあり、一方で生への粘着力と感覚への集中も同時に湧き起こっている。相反する方向に引っ張られながらその中心にあることがおそらくは生きるということなのだとあらためて思わずにいられない。