ボウリングだっつってんのになぜサンダル 靴下はある? あるの!? じゃいいや

『ピクニック』宇都宮 敦

短歌や短詩形というものは半分は自分に属するとしても残りは別のところ、降ってきたとか降りてきたとか、そういうインスピレーションに支えられて完成するという話がよくいわれている。この歌でいえば、インスピレーションの源はサンダルである。インスピレーションとはサンダルのことである。

「靴下はある?」の部分はあきらかに必要があり声を出して問われているが、「ボウリング」以下「サンダル」までは、いわゆるツッコミであって少し発話の目的が違うように見える。そもそも声に出したかも定まらない。頭の中だけで、漫画の雲形のふきだしのように考えたことのようにも思える。ボウリング場ではみんな同じレンタルのスニーカーを履かなければいけないから、素足でなく靴下を履いている必要がある。そのルールから少しそれた服装を見とがめながら、困りながら、あぁこれは前にもどこかであったことだなとおきまりのやりとりであることが含意されている。この人たちは見ず知らずの初対面ではない。すでに関係性が伴っている。本気で怒ってはいないとしても「なぜサンダル」を当人に向かって本当に言ったのかどうかは、互いの関係性にしか着地しないだろう。単純に、そう零しても違和感のない間柄なら言ったかもしれないし、そうでなければ言わなかったかもしれない。この、関係性をカギとして文の意味や役割が決着するようなところ、他者と自分との間に四六時中インスピレーションが降って湧き続けているところ、作品じしんが人間そのものにつかのま成り代わっているようなところが、よく実感とかリアリティと呼ばれる技巧とも全然異なる形で、はてしなくリアルだと思う。短くはあるけれど小説や漫画でキャラクターに心動かされる瞬間ともよく似ている。

そうして、「あるの!?」ともう一度この人の心がおもしろく動いてざわつき、結句の「じゃいいや」は「なぜサンダル」に対応する形でふたたび口ごもっている。なにが「じゃいいや」なのかはかんたんにはまとめられない。「なぜサンダル」のツッコミを自分と周囲に向かって訂正しながら、ちょっと照れながらさっさと球を投げようよ、ということだと思うけれど、少しもそんなことは一首に書かれていないし、何から展開してそう感じたのかとても説明がつかないのに、必ずそういう意味だろうなと強く理解する。脳に直接書き込まれるみたいな歌だなと少し思う。

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