叱られて泣き出すまでの静けさの同心円のなかのひぐらし

藤田千鶴『白へ』

 

けっこう季節感が大切な一首のような気がしていて、その季節は「ひぐらし」が連れてくる夏である。念のためひぐらしのことを確認したら、夏至の頃から鳴きはじめるらしいが、この歌の夏は中盤から後半くらいのイメージで読んでいる。というのも、何かしらの弛緩が一首を包んでいて、この弛緩が一首のキーとなっているような気がするからである。夏の中盤後半のだらっとした空気というか、そういうものを感じながら読むのがこの歌にはふさわしいのではないかと思う。

叱られるという現象に夏という季節は似合う。子どもはもちろん春夏秋冬関係なく叱られるときには叱られるのだが、夏は特に叱られやすい季節だったようにも思われ、また夏に叱られるときにだけ発生するコクというものがあったようにも思われる。叱られてからそれが体の芯にとどくまでの時間について、到着するまでの時差は年齢によって変化するところが大きく、小さい子どもほど到着が遅いのだろうけれど、季節によっての変化もおそらくはあって冬の引き締まった心身にはいくらか早く到着し夏の弛緩した心身にはやや遅れて到着する、そういう感覚がある。また、構えているときと無防備なときでも差があった気がする。前者は早く後者は遅い。無防備でモロに叱りを受けたなら、芯までなかなかとどかない。この一首には誰が叱って誰が叱られているのか、がない。とにかく、叱られてそれが体の芯にとどいて泣き出すまでの、泣き出すまでの下ごしらえの、不可思議な静謐の時間にぐっとフォーカスしている。

そして下句。「同心円のなかのひぐらし」が面白い。ここだけを読めばひぐらしから放たれた鳴き声がひぐらしを中心として同心円状に広がっていく。が、上句から読み下していくと一首は四つの「の」によってつながりながらどんどん結語の「ひぐらし」に収斂していく。この収斂は叱られたことが叱られた側の体の芯にどんどん縮まりながら到達するときの逆同心円状の運動と一致している。同心円状の広がりと逆同心円状の縮まりが同時に歌に起こっていることで眩暈に似た感覚を催させるのだけれど、この感覚こそ叱りが叱られた側の芯にとどく前、つまり叱りとして結実する前の、大きく鋭い声をただゆわんゆわんと吸収し整理しつつあるときの体感なのだと思う。五十歳近くになるとさすがに叱られることも少なくなったが、叱られなくても叱られたときの体感をまざまざと思い出させてくれる貴重な一首である。

『白へ』は短歌連作と童話で構成された珍しいかたちの歌集で、特に「白」という童話には出来事をダイレクトに受け止めてしまう子どもの体感が色濃く表れていて掲出歌ともよく響きあっていることを付記しておく。

 

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