虫武一俊『羽虫群』
どこからどう読んでもお祭りの歌である。にもかかわらず、この歌のお祭り感は異常にうすい。「繫ぐっていうよりつかみあいながら」はお祭りの雑踏に揉まれながら離ればなれにならないように力を込めて手をとっているのだから、そこから群衆の発する人いきれや祭りのにぎわいが手繰り寄せられるはずである。しかし、そうはならない。祭りの喧騒を聞き取ろうと一首に耳を澄ましても音らしい音が聞こえてこない。そんなはずはないので、何度も耳を澄ますが、やはりほとんど無音である。
お祭りの歌なのに一首を読み終えたときお祭りは勝手に後景化している。代わりにどんどん前に出てきているのが、「つかみあいながら」の慣れなさ、不器用さなのだと感じる。「お祭り」が潤滑油のようになって「つかみあいながら」を自然に表舞台に出しておきながら、出したとたんに引っ込んでゆくことで「お祭りの雑踏のなかだから離れないように」という動機が失われ、ただ「つかみあいながら」がこの歌に残される。結果としてかけがえのない相手との接触の強さだけが空中から突如浮き彫りになったような恰好で出現したように見えるのだと思う。お祭りの雑踏のなかという限られたシチュエーションはこのときすでになく、「つかみあいながら」は一人と一人との全時間的な結びつきの様相を帯びてこちらに迫ってくる。お祭りから入って全時間へ抜けていくその読み心地が、はげしい美しさとなって突き付けられる。一種の電撃である。そうすると「何度もくぐる」も一夜のお祭りのなかの灯を、というより一人の生涯と一人の生涯との巨大な時間の幅に何度も訪れるだろう明るさまた暗さを、へニュアンスが移動する。明るいところも暗いところもお互い不器用に、その分しっかりとつかみあいながら歩いていく。
ふゆかげのちからよわさよ持久走最下位という事実のなかの
「負けたくはないやろ」というひとばかりいて負けたさをうまく言えない
傷つけてしまう怖れに水ばかり見ていたような春がまた来る
駅前の冬が貧しい できなさとしたくなさとを一緒にされて
こういう歌を読むと、他者を傷つけないための技術としてどこかで「弱さ」を会得しそれを個人の美学として内面化し長いこと固持してきたのではないかと思う。しかし掲出歌には他者を変容させることの怖れを通って、他者とともに変容していこうとする、この一冊にとっては捨て身ともいえる強さがみなぎっている。