鍵穴ほどの幸にてもよかりしよ蝋もせば蝋の火あかりがあり

『野分のやうに』生方たつゑ

小さな幸せのことを例えるのに、ふつう「鍵穴」は簡単には出てこない。しかしこう書かれたならば、もう「鍵穴」以上にふさわしい例はありえないのではないかと思えてくる。

「鍵穴」と並べやすい概念としては「鍵」自体や、「硬貨」「アクセサリー」などがあり得るだろうか。小さくて、金属製の、日常にしてはちょっと意味が重たいもの。「鍵穴」がそれらと異なる点があるとしたら、まずは穴であること、それに持ち歩きができないことだろう。持ち歩くこと、つまり別の場所で機能したり、何かの代替となったりすることに意味が集中しているアイテムとは違って、「鍵穴」はその場にあり続けないと意味がない。「鍵穴」にとっては、その所在する場所がなによりも重要である。話の駒をひとつ戻すならば、やはり穴であること。奥へ連なる空間の端緒として鍵穴があり、すなわち鍵穴じしんが空間のひとつの入り口である。いっけんつつましいだけの発想の先に、見えない空間を感じさせるのが、「幸」にともなう奇妙なおびえの感覚によく似ている。「にても」という三連符の助詞によって与えられる細かなニュアンスにも注目する。「に」の順接がすぐさま「て」で翻り、「も」で茫然と口ごもる感じ。
下句についてあまり触れていないのだが、上句に対して抵抗の少ないろうそくのイメージがさらに接続されることは全体を軽く補強し、「幸」の一語をきわだたせている。蝋の小さな火と、鍵穴とはだいたい大きさが近いし。

乳の中にもの煮込みゐて違和感もなき夜か美しき佛を見れば
ねむれざるほどに怒りのこみあげし夜も生きたりきうるむともしび
卑下感の癒着なす吾を言はずして酢にひたしたる花食べてゐる

自身の感情をみつめ、模るにあたって独特の手つきがあるなと思う。ミルク粥と釈迦の関係を前提にしながら、鍋の中のなにかの食材、この人だけの「違和感」がごろりと書き込まれた歌。とはいいながら、「美しき佛」を見たことでそんな違和感もなくなった、という書きぶりなので、詩がうまれくる文脈と、個人の感情と、文法の構成とはいくらか倒置され、混線しながらミックスされている。同じようなことが「生きたりき」にも感じられた。「卑下感」という造語の深みに対し、さっさと箸を手に取っているところにもふとしたおかしみと呼びたいようなものがある。日々の感情としてこみあげてくる緊張感、ごつごつ感が、いろいろな場面につぶさに現れていると思う。

根本より幹いくつにも別れゐてまぼろしなせる梅花は白し
枝這ひてゐる梅林をくぐりきて明日の願望のことは思はず

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