湯あがりの4番5番6番がコーヒー牛乳 4を押したり

山下翔『meal』

 

シンプルな一首である。これだけシンプルな歌というのも珍しくシンプルでいながら歌の前景のみならず背景まで滲みだしているのもひとつの手腕である。場面は町の銭湯だろう。温泉でも「スーパー」がつく銭湯でもなく、住宅街の一隅にまぎれているような銭湯なのだと思わせるのは、もちろん「コーヒー牛乳」という単語があるからで、温泉に行ってまでコーヒー牛乳は飲まないしスーパー銭湯だともう少し酒に向かう誘惑が発生する気がする。「湯あがり」と「コーヒー牛乳」がほとんど「の」だけで直結しているのも、銭湯という場での条件反射に意識を交えずしたがっている感じがあって、これは銭湯なのだとあらためて思う。

少し昔の銭湯だとガラス張りの冷蔵ケースから取り出して番台で代金を払う仕組みだったように記憶しているのだけれど、この歌の銭湯にあるのは自動販売機、それもスケルトンで陳列棚から取り出し口まで機械が運ぶ様子を見られるタイプの自動販売機である。4番5番6番という番号は同じコーヒー牛乳が三つならんで選べる状態にあるということを示しつつ、さらにスケルトンタイプの自動販売機であることを知らずしらずのうちに読み手に感じ取らせている。(通常、普通の自動販売機には「つめた~い」「あったか~い」があるのみで番号はない。)そして4番も5番も6番も、どれを押しても同じコーヒー牛乳が出てくるわけなのだが、おそらくは4がもっともストレートな選択なのだと思う。5番や6番を選ぶときには、何か逆張りの思考がわずかに働きだしているように感じるのだがどうだろうか。4を選ぶことが「4を押したり」で少し雑に、かつまっすぐに表され、湯あがりのやや朦朧としたそれでいてリラックスした気分をただよわせている。言葉のひとつひとつは極めてシンプルであるにもかかわらず、シンプルな言葉に張った無数のこまかな根が鮮明に見えてくる作品である。

 

まはるまはる葱の小口の輪をくぐるさいふうどんのつゆのみほせり

 

こんな飲食の歌もある。口元に遊園地があるような楽しさで飲食をしている。つゆを飲みながらつゆの水面をなお見ていて「食べる」への集中が全身全霊である。これだけ楽しく色鮮やかなうどんの歌というのは出会った記憶がなく、ついつい二度三度と歌を読み返しているうちにうどんの口が出来上がってしまうのである。

 

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