我を描きしといふ婦人像われに似ず遠視の眼もて見る渚あり

『風に燃す』斎藤 史

気になったのは、人は何をもって自分の肖像を自分に対してよく似ているといえるのかといったことである。形が似ている、というのはきっと程度問題であるはずだから、多かれ少なかれ全然似ないということはなさそうである。意志をもって鏡を覗いたときにくらべて、頬に締まりがないとか、ぼんやりしているということは起きそうだ。「遠視の眼」とは実際の体の状態として、ということに加えて、そうした自己イメージがぶれたような感じ、ゆらぐような感じをあらわしているに違いない。ただ、自分に似ていないといいながら「遠視の眼」であることだけは強く確信しているのは、どういう状況なのだろう?

透明な稚魚がしきりに生れゐて今日わがうみの色薄紫色ウイスタリヤ
かぎりある一生ひとよの中のふぶき野の雪にしたるわれの面型おもがた
しきりに手を振つてみたくて振るためのアクセサリイの白きハンカチ

この歌集には多くの「われ」があり、世間のたいていのものが「湖」のようにじしんの内側に鏡像を作っているようである。ただしそこに生まれ来る別なもの、「稚魚」のことはこの湖では少しとらえがたく感じられている。いくら「わが湖」と呼ぼうともその水たまりは完全な「われ」ではないことが示唆されている。積雪に体の一部を押し付けることはあっても、顔面を押し当てることはかなり戸惑われるが、一生に一度ならばそうしたこともありえるだろうか。ほとんどデスマスクを作っているとも見える。この幻想と衝動との関係は、「この自分」に顔(雄型)があることと、同一のコピーとして雪中に雌型が生まれたことに置き換えられている。自分の顔という、肉眼で見ることが一生かなわないもの、鏡や写真に頼ることでしか存在しえないもの、すなわち究極の幻想が一方にあり、冷たくてたまらない雪、積もったそばから、形を得たそばから消えてしまう吹雪の世界がコントロールしがたい衝動のようにある。その二つは、驚くことに今この瞬間に同じ形をしているのである。

よりスケールは身近になるけれども、誰かに向かって手を振りたい、という感情もじしんの延長でありながらハンカチのようにふいに切り離されてしまう。いいかえれば、手を振りたいという意思に、ハンカチがほしいという欲望が背後から急接近し結果としては同着している。「振るためのアクセサリイの」というやや錯綜した語順にも注目したい。世間いっぱんでは単純な商品分類として「アクセサリイ」と呼ぶのかもしれないが、買う人としてはそうした異なるスピードのなにものかが心のなかで互いに追い抜き追い越し駆け抜けてゆく様を、ざわざわと売場で感じている、それが「アクセサリイ」である。

おそらく自分というものはいくらかの客観を含み、はじめて成立する。矛盾するようだけれど、似ていない肖像、渚、湖、雪中の面型、自分でないもの、こういったものの総合によって私が成り立っているのだと思う。

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