手に掬う海さえも海ちりぢりの言葉のひとつひとつにあなた

辻聡之『あしたの孵化』

 

辻聡之の歌は疲弊した精神であるときに読むとものすごくひびく。わたしは朝から夜まではサラリーマンだけれど特にこの年度末の時期は帰宅した時点でグロッキーとなっていて基本的には目が言葉をはじく。夕飯を食べたりシャワーを浴びたりといった生命維持活動以外は何もできない。それでも辻の歌は読むことができるし、なんならしばらく目を閉じて口をあけてその歌の余韻に身を委ねてしまう。何といえばいいか、一首の声がちょうどよい低さをもっているという感じがする。楽器に譬えればチェロである。

「手に掬う海さえも海」もうこれだけでじんわりときてしまう。海の水を掬ってもなお手の上にあるものを海だと思えるのは、掬った海水を必ず海へ返すことが約束されているからである。初句二句には大きな海にそっと小さな海を返すてのひらの未来があらかじめ含まれている。小さな海は大きな海から分離され、それは場合によっては海に対するひとつの暴力にもなりうる可能性をもっているけれど、この一首の初句二句は海を傷つけていないのだと思う。小鳥を招き寄せて手の上に乗せてしばらくしたらまた元の場所に手放すような、対象の意思に反しないやり方で海をてのひらに移動させている。

言葉が世界のみじん切りだとすれば、人が言葉をひとつ手に入れるたび世界は一回切り刻まれているのだろう。言葉は共通の意味を持っているけれど、それを手に入れるタイミングやシチュエーションを思えばそれはごく個人的なものであるとも言える。ひとつの言葉との遭遇は「あなた」の一瞬一瞬の経験のなかにしかない。共通の意味を持った言葉というもののなかを遡上して「あなたの言葉」≒「あなた」を形作った一瞬一瞬の過去へ手を伸ばしてゆく。深いけれどやわらかな洞察にやはりかるく目を閉じて口をあけて一首を味わってしまう。

 

海岸線を透過する窓ひだまりの子どもが車掌のまねをしている
なぞれない雪の輪郭 手のなかに転職サイト灯しつづけて
回想のバスは仄白い市役所を越えてそのまま夜になります
悪意から遠き足裏ちいさくてふれれば魚のように逃げゆく
ゆっくりと潜水しゆくウミガメのまぶたを水圧の手が閉ざす

 

遠浅の海のようにどの歌も穏やかに光っている。穏やかさは決して武器ではないが、穏やかであることが歌のなかでしっかりと光る。稀有な個性を持った歌群であると思う。

 

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