わかものは去りぬ毛並みを逆立ててそこに戦慄せしごとき長椅子ソファ

『檸檬列島』江畑實

腰かけていた「わかもの」が立ちあがって去ったのだと読んだ。あたかも毛を逆立てた動物のような血気盛んな「わかもの」が、なにげない日常動作として、もしかしたら少し怒って、ソファから立ち上がって去る。居間に残されたソファはまるで怯えて鳥肌を立てているようだ――若さと、怯えや恐ろしさとの関係についてどのくらい説明が必要なのか定かでないが、やがてかならず避けようなく失われるものであるから、とすればわりあい容易に直観されるはずである。「わかもの」がソファを去るとともに、若い時代はいつか若くない時代に変わる。みずみずしい身体は老いを投下するための容れ物となる。所有物が失われることは、すなわち恐怖である。

にわかにこう結論づけたが、はたしてそれでよいのであろうか。もうすこし、掘り下げた理解がこの歌に必要なのではないか。当時二十代の「わかもの」であった江畑がこの作品を書いたときの、書いた意図とはひょっとしたら別のところに、あるいは妙な言いかえだが同じものとして、ここには一種のうたがいのようなものが秘められてはいないか。もっともその根拠となりそうなのは、この作品の視点とか位置関係といったものである。「わかもの」が「わかもの」について書いた作品であるが、それは同じひとりの人なのか、べつべつの人なのかは明示されない。この「わかもの」が一人称であるか、三人称であるかは作品において不定である。さらに、長椅子(ソファ、というルビもよい)について。それは革張りであったり、布製であったり、中にはわりあい毛足の長い布地を使ったものもあるはずだ。またはふさふさのラグが掛けてあるかもしれない。こうしてみていくと、先ほど「動物のような」と書いたのは「わかもの」のことであったはずが、じつは「長椅子」もまたあきらかに一つの動物のように見えてくる。動物のよう、という印象は「わかもの」であり「長椅子」でもあって、じょじょに歌意の見通しはあやしくなってくる。
このいくらかの前置きがあって、一首には「戦慄」という感情の転移が発生している。鳥肌のたつような思いは、当初「長椅子」に帰属している(戦慄せしごとき長椅子)と書かれているのだが、これは「ごとき」とあるので、(当たり前だけれど)想像とか喩とよばれるものである。「そこに」と一語置かれているのもことさらに効果を増しているだろう。「戦慄」という表現は、もちろん無機物の長椅子ではなく、書いた人=「わかもの」の感情に由来している。その「戦慄」が風景における「長椅子」をいったん経由して、最終的に読者に転移する。この感情の受け渡しは、批評としてはときに共感と呼ばれるもので、ただそういった経路がわりとクリアに、修辞技法として目に見えていることが、とても面白い。

それで、その面白さが〈うたがい〉というか、作品の内部についてもう一度振り返る態度につながると思ったのは、この共感がほぼ自然発生的なのか、修辞の出来栄えによるものなのか、見分けがつかないからである。詩としては、それらはあえてシャッフルされているからである。奇しくも「長椅子」すなわち家具・調度品は典型的な家の資産であって、「所有物」という連想はまぎれなくそこから来ている。つまり、ここに仮に「長椅子」でない別のアイテムが置いてあったとしたら、またこの「わかもの」がここを去らずに座ったままでいたなら、この歌には別の感想が導かれていた可能性がある。若さ⇒失われる⇒戦慄、という連想ゲームは、言葉の連絡によるあるていど偶然のものである。若さは若さとして輝かしいし、そのうえで若さが失われたり、どこかへ行ったりするなど、本当はあまり決めつけなくてもよいのではなかろうか。この面白さ、不思議さをあえて舌足らずに言うとしたら「言葉遊び」ということになるのであろうが、ここにいる「わかもの」はそのふるまいをすでに、まるで老年のように熟知している。

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