髙﨑愼佐子『GARDEN』
水晶の世界では無色透明なものをロッククリスタルと呼ぶ。そこに紫色が入ればアメジストと呼ばれ、さまざまな鉱物が内包されひとつの風景のように見えるものは庭園水晶と呼ばれる。歌にも意味とは別の次元で内包物の多寡というものがある。たとえばこの一首は内包物がきわめて少ない。水晶で言えばロッククリスタルのように思われる。言葉のつながりに揺れがなく結晶化したひとつの真理を掬いとったときの硬質さがあり、言葉の上の純度がそのまま言外の純度を思わせる歌のかたちをしているのである。
生誕というのは何か透明や白につながりのある出来事である気がするけれど、この透明は始まりの無垢な色でありながらいろいろなものが新しく詰まっている色でもあるだろう。一方で死というものも透明につながる。こちら側の透明は年を重ねてたくさんの色彩を抱えながらそれでも何かが抜けていくことで現れる透明であり死によって完全な透明が完成する。この歌で抜けていったものは小さな臓腑である。「小さな」とあることで、その内臓のあった場所だけがピンポイントで透明化していく。「秋」という季節の提示も紅葉、黄葉からの落葉を背後に置くことになり臓器の赤く色づいた色彩やそれが抜け落ちてゆく動きと照応する。一首の透明と出来事の透明が重なっていることで、失われた臓器の分以上にこの歌のなかにある身体全体にもその透明は及び、身体が時間と同化しているように感じられ、もはや身体と秋の区別がない。
一首における内包物の多寡は個人の志向にかなりの幅があって、作者側読者側それぞれに意見があるテーマだと思うが、この歌に関しては内包物の少なさが一首の成立には欠かすことのできない要素であるはず、と感じるのである。
にんげんの飛行機に乗り百済観音長身ささへパリから帰る
『GARDEN』にはこんな面白い歌もある。実際の百済観音の長さは分からないけれど、この歌の感じからすると飛行機よりはやや短くしかし仏像にしてはかなり長い百済観音が浮かんでくる。にんげんの飛行機に巨大な百済観音が無理やり押し込められたようなイメージが湧き上がってきてこちらの歌は掲出歌に比べると内包物が多い気がする。そしてどちらも印象に深く残る歌であることに変わりはない。
