『狂はば如何に』高橋睦郎
夜空に対して、立体と平面の感を同時に受けることの不思議はなじみ深いものだろう。夏の大三角とか、なんの星座でもいいのだけれど、あれは一定の地点から見上げていると平面的に押しつぶされて図像のように見えるだけであって、互いの恒星はただ相対的に、三次元的に距離を取っている。やや近い星も遠い星も、地上からはいつでも同じ距離を保っているように見えていることが、面白くて不思議である。大きな例外が月と太陽であって、彼らは異様なサイズであって常に位置を変えていくから見ている側の位置感覚を絶えず狂わせている。
そういうわけで、掲出歌では「星ぞら」は布に例えられている。反対に、ベロア、スパンコール、オーガンジー、絹布といい、布いっぱんに光沢を帯びたものが多いことを思い浮かべてもいい。「薄ら紗」の手触りや質感を私には具体的にすぐに挙げることができないが、そのような薄い布が何枚も重なって、「夜」になっているのだという。たぶん、一見するとぴんと布地を張ったような、あるいは幕を垂らしたような夜空が、じつはその布は何枚も何枚も重ねたもので底知れない奥行きをもっていること、冒頭で書いたようなことが念頭にある歌なのだと思う。
「在りて無き」とはどういったことだろうか。まずは夜が在る、という状態を考えてみよう。遅めの夕食をじっくりと嚙みしめているとき、湯舟に身を浸しているとき、そういうときに「ある」という感じがする。眠りたくて布団に身を埋めているときも「ある」。そして眠りにおちればそれは「ない」に早変わりするということかもしれない。夜は多くの場合一日の終着点であり、眠りというリセットの入り口である。朝は昼に、昼は夕に移り変わる、つまり「在りて無き」とはならないのだが、夜が朝に変わる瞬間を、多くの場合は日々見届けているわけではない。その断絶が、「在りて無き」と呼ばれているのではないか。あるいは、「星布」を取りさった後の世界を想像してみよう。そこには暗闇なのか、まぶしい場所なのか、ともかく公演後のステージのようながらんどうの空間がある。いくらも布を重ねたところで、そのがらんどうもまた永久にあり続けること、要するに人生の「在りて無き」さま、そんな二重性を示しているようにも思える。
ともかく、老いに向き合って書かれた歌集の締めくくり付近にこの歌が置かれている。年齢を重ねること、世界が過去から蓄積されてきたことを締めくくるべく、布や星の、しかも立体的なモチーフが突如あらわれたことに、不意を突かれたし目の前がむしろ開けるような気持ちになった。一冊を通してさまざまに書かれてきた老いや人生が、紙に書かれたものからとつぜん立体になったことの驚きがあった。これには晶子を経てロダンに至る伏線があったりと、構成の妙がすさまじいのだけれど、詳しく話すには少し別の機会を持つ必要がありそうだ。
八十路はた九十路越え百とせの峠路に立ち狂はば如何に
切れ易き自らの老い鎭めむとおのれ火つくりおのれ煮炊きす
