『紺』山田あき
第一歌集である『紺』には昭和21(1946)年から25(1950)年までの作品が、逆編年体で収録されている。冒頭はこういう一首。
連翹の花にとどろくむなぞこに浄く不断のわが泉あり
外界と接しながら、心中にある思いのようなものは「浄く」「不断」である。いくつか作品を引いてみたい。
歌よみの惨敗の記憶なまなまし傍観は常にわれをゆるさず
井戸端にアルミの釜が光りゐて秋のこころに立つをんならよ
ぎらぎらと冬の太陽あびて立つこの葱ばたけかぎりなき愛
とことんまではらわたみせておどろかぬをとこの友のひとりだになき
友の子はわがふところに乳くさく集会の夜は喜びつきず
女、妻、母性、主婦といったテーマと、こらえがたい愛情の強さ、国家観といったものが表現においてことごとくストレートに直結して見える。冒頭の「連翹」のように内省的なスタンスを取ろうとしている歌でさえ、やはり表現の強さに回収されていってしまう作風だと思う。この強さがどこからもたらされるかといえば、まずは「惨敗」「常に」といった言葉えらびによるところが大きいだろうか。定型の歴史である時期に流行し散見される表現であっても、それを使いこなすというのはまた難しいことだと思う。軽く影響を受けるという程度ではなく、たとえばまさに、山田でいう強さのような、方向性のようなものが備わっていないと、なかなか躍動感が出てこないと思う。
「強さ」を引き立てる技術がほかにもある。「アルミの釜」「葱ばたけ」の象徴性がひとつ。また、「連翹」に戻るとすれば、花を見てぐらぐらと心動かされることと、心のなかから沸き立ってくる純粋な意志は、この歌で並列してゆこうとしているがそもそも互いに独立し、すれ違っても見える。たぶん作者もあまり気づかないような葛藤が、ストレートな作風の、激しい衝突の中でいろいろとあらわれているように見える。読むほどに、読みどころが伝わってきてどこか心動かされる、だんだん好きになるような歌集だと感じた。
トランプ関税に関する交渉と影響予測がさかんである。生成AIならば、その範囲をどのように見定めるだろうか。戦後二年目の春、この人はアメリカ産の粉を練っている。パンか何かだろうか、「つくねる」というのが「こねたる」ではダメかなあと思うけれど、ここは「つくねる」なのだろう。思考や道理、ましてイロニーなどは一度テーブルに置いて、ボウルの中ではなまなましく粉もろともに国をつくねている生理的な感覚、だからこそ火花が散っている。そこにもまたひとつの哲学がめぐっている、それを自分だけの感傷にはとどめずに、人にも知ってほしいと強く思っている。短歌でも、思ったより大きな声が出せるものだなと思う。