中津 昌子


ひとふさの葡萄といへど手に余り内なる闇のかがやきにけり

雨宮雅子『悲神』(1980年)

 

 

たとえばこの歌の場面のように、葡萄の房を手に持っていることを想像してみる。
両手に包むような感じで。
芳醇な香り、深い色(「闇」とあるからだろう、黒を連想する)、一粒一粒の球形の張りが、内側から漲る力を感じさせ、持ち重りするその一房は、秋の実りのなかでもひときわ豊かさを感じさせるだろう。

この葡萄は、大粒のものであろうが、「手に余」るのは、その実際にとどまるものではないはずだ。

ペルシアわたりの、古い歴史をもつくだもの。そして、葡萄酒になるもの。キリストの血とされるもの……。

実りの豊かさとともに、葡萄のまとう精神性が感受されていると思う。
その感受が、下句で「闇」、「かがやき」ということばを生む。

 

葡萄の中の、生命の中の「闇」。

それが、結句のひきしまった文体でもって、「かがや」くとされる時、深い神秘へ導かれる思いがする。