昏れ方の電車より見き橋脚にうちあたり海へ帰りゆく水

田谷鋭『乳鏡』

 

名歌である。一首では「昏れ方の電車」としか書いていないのに、そこはかとなく労働の香りがする。労働の香りと言っても決してブラックな香りではない。疲労はあってもただ憔悴して首を垂れて帰宅する精神ではない。まろやかさ、疲労と同等の充実、ああ今日もよく働いたなあという健気さというか、労働や社会を恨んでいる人の歌ではない。日中しっかり疲れて、夜はしっかり休んで朝が来れば顔を上げて仕事に向かう人の歌である。昏れてゆく時間のなかにあってこの人が見ているものは水の暗さではなくて水の光なのだと思うのは、やはり「橋脚」の響き方である。「きょうきゃく」という音の「き」の鋭さである。しだいに暗くなりながらかろうじてまだ明るさが勝っているくらいの光の具合が一首の中心部分に置かれた「きょうきゃく」から感じられる気がするのだがどうだろうか。水の光の放心と仕事帰りの社会人の放心がつかのまの窓を隔てて向き合う。また、「昏れ方」は日中と夜の間にある汽水域であるし、この人自身も職場と自宅の汽水域を移動している。車窓から見える水もおそらくは汽水域の水であるだろう。汽水域というのは相反するものが溶けあう曖昧な場所だが、三つの汽水域が重なることによる曖昧さが言外のまろやかさを呼び寄せており、読んでいるこちらもとぷとぷとその空間にたゆたってしまう。

音の話をつづければ、「昏れ方の電車より見き橋脚に」と「うちあたり海へ帰りゆく水」の緩急もすごい。上句「昏れ方の電車より見き橋脚に」はカ行音を主体とした造りで車窓の四角さ、電車の直線性や機械的存在感を含み、一方下句「うちあたり海へ帰りゆく水」ではア行音を主体に輪郭の尖りを持たないまま結語へ至る。

特に「うちあたりうみへかへりゆくみづ」の「う」と「へ」が生み出す規則性とランダムさの入り混じったようなリズムがそのままたゆたいとなり、水の動きが生きたまま歌へと移植されていることに目を瞠る。ただただ素朴に詠まれたかのような一首だけれど、微細な音のひびきがあますところなく光景の栄養となって吸収されている。残るべくして残った名歌だと言える。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です