午後の仕事は火つきの悪いバーナーをばらばらにしたところで終る

『喬木』外塚喬

仕事いっぱんについて話しだそうとしたけれど、それはまったく簡単ではなさそうだ。かといって、世間いっぱんで仕事についてどう思うとか、仕事に求めることはなにか、やりがいはなんだということをもし聞いたとしたなら、その回答の選択肢はおどろくほど集約されているのではないか。1000人や10000人に聞いた場合、ディテールを見なければ多くとも数十個くらいの回答にまとめることができるように思う。個人のディテールを無視できる、じしんの考えにぴったりとあてはまることがなくても、それらしく近しい回答を選ぶことができる。これを踏まえるに、仕事という概念は人間のそれよりいまのところ大きいのだと思う。まさしく市場に向かって投資家が祈りながら予想を張っているように、人間の取り組みを、むしろ淡々と先取りし、超越した場所に、仕事があるのではないか。それはすなわち、個人が単独で行使する以上の大掛かりな動力が、集団である場合に発揮され、個人以上の領域につねに染みだしているということではないか。

少し戻ると、短歌というか職業詠としての仕事について考えるならば、そうしたアンケート回答の選択肢にとどまる部分と、ディテールとの組み合わせになるのだと思う。一般性と特殊性という対比がいいたいのではなく、それらの見分けにくい場所に、人間と詩がそっと凭れあいながらうまれているというか。仕事という活動の大きな特徴は、上で書いたように、大きな概念を人を軸にして細かく切り分けてゆけることだ。多くは一人あたり一日あたりの作業単位に分けられる(しかも、その総和が数学的でなく微妙に増減する)し、それ以外の分け方もできる。午前、午後、という分け方がまずこの歌でみられる。朝はだめだったが午後になってやる気がでる、という言い方はよくきくものである。それから、表向きにここでは書かれていないけれども、人に見られる仕事、見ていない仕事という分け方もあるだろう。このとき「人」はかならずしも周りの直接の関わりだけを指さないということもある。要は祈りの対象が見ているかどうか、ということでもある。単に趣味のためのバーナーの火がつかなくて、ばらばらにしたというだけなら、そこまで印象が強くない。これは仕事で使う道具であって、おそらくこのとき、誰の視線も手助けもなく、この人はバーナーをばらばらに解体していた。そうしなければじしんの仕事が滞るためだ。道具を組み立てるのではなく、解体する作業は作業自体を前に進めるというよりあきらかに後進させている。しかも誰にも見てもらうこともなく。しかしそれがなければ、全体の進捗がないというところに、仕事のなかの詩がある。仕事の工程を細かく切り分けながら、目の前でおなじように、バーナーという器具を分解していく。だれにも見られていないはずなのに、いたたまれなく詩が起動している。

言葉の面にもふれておこう。「ばらばらにしたところで」の「ばらばら」が俗であるが、「バーナー」のB音とむすびつくことで、むしろ機械のような緻密さでいきいきと聞こえてくる。「ばらばらにして」終わるのではなく、「ところで」とさらに表現が遅延して、夕方のけだるい感じ。職業詠にともなう興味深さ、奥行きはこうした部分でも支えられている。

まぎれこみやすければいつも作業台につきさしておく千枚通

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