残像のあなたと踊り合いながらあらゆる夏は言葉が許す

『やがて秋茄子へと到る』堂園昌彦

生きることを続けていると、さまざまな思い出、記憶がだんだんと均されて、一様なものに感じられるのだと予想していた。このうえ何を経験しても新鮮な思い出とはならない。厚みを増した経験のために、次の出来事も、いつもどこかで見聞きしたデジャヴのように感じられると。感情もそのようによりフラットに近づいていくのだと。話は変わるけれど岩波科学ライブラリー『生成AIのしくみ 〈流れ〉が画像・音声・動画をつくる』(岡野原大輔)では、「拡散モデル」というものが水面上にインクで字を書くことに喩えられ、インクが水中に一様にまざる過程を逆再生するようなしくみで生成が行われると紹介されている。この話題とすぐさま直結するものではないけれど、思い出もまた、時を経るごとに拡散し薄れゆくものだと、予想をしていたのである。

ところがこの頃そうでもないような感じを受けている。生きるほどに過去は濃縮され、強固な塊になっていく。忘れることができたならば幸い、忘れなかったものは常にとろ火で煮込まれているような状態で、思い起こすたびに私の感性と行動をしばりつける。あのときのあの出来事は色形を変えながらいつまでも鮮烈であり、新しい記憶は日々絶えなく産み落とされ続けている。思い出はセピア色に褪せていくというのがまやかしで、それらはくっきりとした色づかいのダイナミックな抽象画に近づきながら次から次に生産される。そういう許されなさが、過去と記憶にはつきまとい続けている。

過去を飲み干したと思えるのは、自己の内部で整理ができるようになったといえるときだろう。昇華であれ、言語化であれかまわない。それ自身の火力は変わらないかもしれないけれど、過去に接触し、操作をするようなやり方があるのだと思える。掲出歌の「言葉が許す」という断定が、心からそうだと告げているのか、そう信じたいという願望なのか、私には判断がつかない。「あらゆる夏」は文字通り、過去すべてのあらゆる夏を指しているだろう。「あなた」というかすかな具象があり、ゆえに、少しばかり〈私〉の過去に寄り掛かったようなそういったあらゆる夏。〈私〉と同じように「あなた」にも過去があることを「残像」という単語の選択が指しているだろうか。社交ダンスのように「踊り合う」ことは日本語では可能なのだろうか。「踊り」は「言葉」とは対極にあるように感じられる。歌と踊りはセットであるが、「踊り」と「言葉」とはなにか反発しあいながら、相互に補うような関係をイメージさせる。踊り合うことも、言葉が許すことも、この歌の中ではどうしても不可能性を残しているように思われる。許されたい、それも、人から人への許しではなくもっと根源的な苦しみを目の当たりにしながら、私は「あなた」と踊りつづけている。その場ににじみしたたる汗のしずくにだけ、本当の安らぎが眠っているように見える。

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