水あふひ水にうつりてほのかなる花のむらさきは藍に近かり

『黒松』若山牧水

没後出版された遺歌集(第十五歌集)から。掲出歌は「手賀沼に遊びて」という連作に収録されている。短歌新聞社版の解説で竹中皆二が引いている「諸家の評」(宇都野研、岡山巌、鹿児島寿蔵、土屋文明)のコメントによると晩年の作はそれほど評価が高くなかったようだけれど、「平板」な中にも滋味があるというか、ひとつずつの単語が素朴でしかも深みのある響き方をしているように読んだ。連作がなめらかで途切れなく、うまいと思い、うまさとはなんだろうと考えることしきり。牧水の生涯は自然と旅、でありながら、あくまでも言語芸術という枠組みで行われ再現されることの妙を感じる。

手賀沼という場所はふしぎなくらい創作意欲が出てくる。景色がいい水辺というだけでなく、あの異様な見晴らしのよさや鳥類など動植物の分布のために、なにかこの風景を別の形で残したいという気分になるというか、「意欲」以上に「創作」のことを自然と考えたくなる土壌があるように感じる。広大な空と湖沼を背景にしながら、先々の草木がとても目についてちまちまと追いかけたくなる感じ。徒歩でどこまでも行けてしまうところもその理由であるだろう。「水あふひ」「水」という畳みかけがこの歌のスタートラインであるし、それ以上にこれを書いた人の指先にわずかにこもりつつある力を感じさせる。たまたま「水」という名に恵まれた植物と、じっさいの水面がとなりあっている様子は詩句として再現され、しかもその文字の印象は視覚に強くうったえかけてくる。花弁が水面にどのように映り、映えているかという想像に先んじて、文字がいたましく揺らいでいる。そのいたましさのなかに、水葵という花のイメージと色合いが膨れあがってくる。花の印象は「ほのか」であるらしい。地上の花に比べて、水面に映った花の色は濃く見える。むりに理由をつけるとすれば排水で濁っているのか、底の土の色が重なっているか、また光線の関係であるかのいずれかだろう。だがそこまでの見た目の違いが本当にあるものだろうか。気づきというにもささやかすぎる。「むらさき」と「藍」が色のグループの中で近縁にあるというのも単純で常識的。ただ、その常識になぜか心が動かされる。この人は沼のほとりを歩きながら、目につく風景を書き起こそうとしている。「むらさき」と「藍」という違いがここにあるようだと感じ、そのグラデーションを詩句として成そうとしている。おそらく歌として書かれなければ、「むらさき」と「藍」とは区別されない同じ色であったものだろう。写真に収めたとして、それらは違う色とはならなかったかもしれない。「むらさき」「藍」という二つの単語を使い分けること、ただそれだけがこの歌の芯である。風景のかすかな印象が、言葉に対して全面的に投影されている。鏡写しの花のように、言葉が現実の鏡写しであり、言葉が輝けば輝くほど現実も輝きを増す。意味の分量が少ないときに、その埋め合わせとか代替というのではなく、質量のない輝きというか、全然違う力を発揮することがあるのが、詩歌の面白さだと思う。

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