内藤明『夾竹桃と葱坊主』(2008年)
夜、勤めから帰って、着がえる時にでも発見したものだろうか。
アッ、こんなところに。カッコ悪いなあ。
朝ごはんの時についたのかな……。
ほとんど上着を着ていたけれど、机に座っていた時は、脱いでたよな。
たとえばこんなことが、ぺったりと貼りついたカラカラの飯粒をはがしつつ、頭を駆け巡ったにちがいない。
同時に、「一日をわれとともにありしか」のうたいぶりには、もう少しやわらかい気持ちもひそんでいるようだと感じる。
ともあれいっしょに一日を過ごしたものに対する、“同志”に向けるとでもいうような情。
これは、「ご飯粒」だからこそ、そう思うのだろう。日本人が長く主食にしてきた、そして〈わたし〉にとっても、他の食物と比べようのない親しみのあるもの。
読者の方にも、たぶん、服のどっかにくっついたごはん粒の記憶があるはずだ。こううたわれれば、その乾ききった小さなものがありありと思い浮かぶような記憶が。
そのことが、歌に読者を引き込む下地として大きく働いていよう。
・ただひとつホームの露台に売れ残る苺大福を近づきて見つ
・文学の終はりに終はりはないのだと海鮮ピザを八つに分かつ
・ひとつづつ忘れてゆくを愉しまむ嚙んではならぬ改源のど飴
・ぽつかりと言葉絶えれば大きなるふろふき大根分けあひて食ふ
食材をうまく生かした歌が多い。