椛沢知世『あおむけの踊り場であおむけ』
就寝前にスマートフォンの画面を見るのは眠れなくなるから良くないのだ、という知識をおおよその人は持っているのではないかと思う。とはいっても、寝室で横になっていつでも眠れるリラックスした状態でスマートフォンにさまざまな情報を呼び出し眺める時間が至福のときであることも知っている。この歌では「好みな顔」を眺めているのだが、「好みの顔」ではないことに立ち止まる。ここが「好みの顔」であればちょっとねっとりとした所有欲のようなものが表に出てきたはずである。「好みな顔」というときのさらっとした対象との距離感に、眠る手前、一日の終わりの放心があるように感じる。ここにあるのは集中ではなくて散漫であり、それは一首のシチュエーションが見せてくるものというよりも「好みな顔」の「な」が知らせてくる散漫である。
つづく結句、「光を浴びる」にも立ち止まる。スマートフォン画面に映されただれかの顔を見ているときに「光を浴びる」と感覚するのはわたしからすればけっこう難易度が高い。顔を見ているときにはその顔がこちらの感覚に触れてくるので、光というかたちのはっきりしないものは後退し、それを浴びている感覚はとても薄い。いや、ほんとうにそうなのか確信できなかったので、部屋の電気を消してスマートフォンの画面をしばらく眺めてみたが、「好みな顔の光を浴びる」の表現のいとも簡単なふうにはいかず、顔は理解できても顔の理解に脳のリソースが奪われて光にまで理解が届いていかない。そういう人間からしてみると「好みな顔の光を浴びる」は自分ひとりでは処理しきれず、もうひとりの自分が存在していないと実現できない類のものである。だからこの歌には自分を他人事として見ているもうひとりの自分の気配を感じてしまう。スマートフォンを手にして画面からの光を浴びている自分を、寝室の隅に体育座りでもして眺めている自分。自分からやや離れたところにいる自分があってはじめて、「光を浴びる」に理解が届く。先に散漫ということを言ったけれど、散った先の意識がプラナリアのように再生して独立した感覚を得ている、そういう奇妙な目玉の遍在を思うのである。
線路沿いの菜の花を植えたのは腕 わたしが眠るあいだにうごく
まぶたを閉じて目玉をくらやみに沈めていても、別の目玉は起きてみひらいている。放心と散漫を菌床として常に目をあけたままの自分が生まれている、そういう「自分たち」を歌がやわらかく統一していく。
