『うすがみの銀河』鈴木加成太
人と話していて、いま何かが届いた、通ったと感じるのはあまりにも一瞬のことである。視線であったり、挟まれるうなずきや相槌のタイミングであったり。その通過電車のような一瞬があり、途方もない嬉しさに包まれるのだけれど、すぐに後悔や恐怖にすり替わっていることもしばしばで、やがてゆっくりと、その一瞬は記憶の抽象のなかへ練り込まれていく。
こういう瞬間をどうにか現実の形に残してあるものが、文芸や美術なのだろうか。創作はつねに絶対の孤独を伴うけれど、アトリエという場所は、一人の人間が占用しない場合もきっと多いのだろう。何人かが集まり、あるいは画家とモデル、それ以外という役割が分かれていることもあり、それぞれが自身のアートに向かっているのだと思う。アトリエは孤独を生み出すための空間ではあるけれど、孤独な場所ではない。掲出歌は、どちらかというとアトリエの中の絵である。画家とキャンバスとの交感のなかで杳い感傷が流れ、絵の具や溶剤の力で少しずつ、少女たちが溶け合っていく。背景の空間には蝶のモチーフも飛んでいる。画家がひたむきに作品を仕上げていくことが、またべつのいつかどこかのアトリエで、少女たちがつむいできたささやかな言葉と交流の残滓をよみがえらせる。「昼のアトリエ」ではなく、「昼を」という断絶。少女たちの時間は現実には過ぎ去り、溶けてなくなってしまったものである。画家は筆を止めない。太陽のもとで絵を描くことのできる日中の時間いっぱいに、キャンバスに向かっている。わずかな時間だけ走らせる気まぐれな筆とは見えない。じっとりと、杳い時間がこの場面いっぱいに漂っている。
杳さのひとつの指標となっているものが「蝶」である。ギリシャ語で蝶はpsyche(プシュケ)と呼ばれ、霊魂と通じる単語であるそうだ。さなぎの仮死の時間を経てよみがえる蝶は、この世にある間も、生の入口と出口である。その虫の身に通うものよりも、さらに、いっそう杳く。人との会話で何かが伝わることは、意味が通じるという以上に、人体から人体への驚くべき連絡がなされたということのように感じられる。黙っていれば、すれ違うことがなければ何も起こらなかったのに、人と人が溶け合っている。人が人である限り背負う死の運命どうしが、この場で混ざり合っている。少女であったころ、こんな風に言葉にしなくても、かなり正確にこういう実感をもっていた。ほかの女の子も、同じように感じているのではないかと思うことがあった。もうそれはない、というものが、アトリエで、画家の世をいとおしむような筆によって、繰り返し、再現されている。
