深刻さがわたしを枯らすまでのちいさな往路で考えるちいさな復路のこと

『笑っちゃうほど遠くって、光っちゃうほど近かった』初谷むい

人差し指と中指を二本の足に見立てて、机の上でいろいろな技に取り組む指のスケートボードのことを思い出した。あと、すごい技術のペン回しとか。サプライズの方向性は少し違うけれど、テーブルマジックもそうかもしれない。指の股から股へコインを渡していくさまなど。この「往路」「復路」の小ささ(大きさ)は、顕微鏡のミクロの世界というほど小さくはなく、小型犬ほど大きくも活発でもない、手のひらでおさまるくらいのサイズのように見えた。

指のスケートボードやペン回しが流行し根付いたのは、そのすごさが動画で伝わるようになったからだと思っている。真剣なスポーツをやったことがないので身をもってわかることはないけれど、技術が難しければ難しいほど、技の成功率は低くなる、再現性が下がるものだと思う。そのうえスケートボードの達人にちょうどいい場所で直接会うことも普通はできない。達人が、机の上でまれに完成させる技は、動画のなかで繰り返し再現され、目の当たりにすることができる。この歌のものすごく手前に、たぶんこういう前提がある。そのうえで考えなければならないのは、「復路」とは「往路」の再現なのかということだ。もっとも見覚えのある光景は、駅伝として箱根の山を登って、下りてくる場面になる。毎年なじみの旅館や飲食店が、一瞬背景に映りこみ、翌日は反対側から映し出される。あれを駅伝ではなく、一人の人が行っているランニングだと考えよう。「往路」にある間、あー、このあと帰らなきゃいけないな、だるいなあ、という考えが浮かぶのだろうか。それが「復路」のことなのだろうか。

机の上におけるこの人の大冒険は、モニター越しであるようにこちらに伝わってくる。この人は往路にあり、いずれは引き返すときがやってくる。ただ、その引き返す地点から先の「復路」についてどのように考えているのか、まではそれほど深く伝えられてはいない。ランニングする身体における〈だるいなあ〉はなさそうで、それは見る限り小さな愛らしいミニチュアである。少しずつむさぼるように動画を見返すことはできる。ただ、なんど動画を見直しても、技術が再現されるいっぽうで、「往路」「復路」あるいはその切り替わりが具体的に立ち上がることはない。モニターを見ている私と映っている指との間に、小さな愛らしい隔絶だけがある。「深刻さ」を直視してしまえば、そのささやかな関係性はあっというまに壊れてしまうのかもしれない。「ちいさな復路」がまだ訪れない想像上の未来で、本当はぜんぜん別のものが待ち構えているのかもしれない。指のスケートボードが消しゴムを飛び越え、定規の坂を下っていく間、私はその先を想像することはできるけれど、確定させることはできない。それは競技者にとっても同じことで、いまの時点では「わたしを枯らす」ことが予想されるけれども、その折り返し点がどこにあって、本当にそれは「枯らす」ことへ至る道なのか、誰にもわかってはいないのではないか。道中にあるかぎり、小さなミニチュアである冒険を、その難しい挑戦を、お互いに手を出さず守るように見つめているだけであって、ただその光景にもまた、ささやかな愛が横たわって見える。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です