ポケットのないドラえもん思ふとき かけがへのない愛といふもの

橋場悦子『静電気』

 

ドラえもんの丸い頭はかわいらしいけれど、あれはねずみに耳をかじられてしまったからであって製品としては不良品ということになる。さらに四次元ポケットまで失ってしまったら製品としての価値はだいぶ下がってしまう。だとして、たとえば右にドラえもん、左に四次元ポケットを置き、のび太くんに「どちらか一方を選べ。選ばなかったほうをスクラップにする。」と告げたとき絶対に選ばれるのはドラえもんのほうであると確信をもって言える。ポケットのないドラえもんは無力な存在だが、むしろこうして「力」が洗い流されることで愛というものはくっきりと見えやすくなってくる。非力なのび太くんをドラえもんが何の迷いもなく受け入れつづけたのと同じように無力なドラえもんをのび太くんは絶対に受け入れるはずである。もしこれが家電量販店で、新品のドラえもんと新品のポケットが別々に売られている状況ならポケットのほうが選ばれる可能性も十分に考えられる。そこにある差は時間の経過と関係の蓄積の有無であるだろう。時間の経過と関係の蓄積が必ずしも愛に結びつくわけではないが、だからこそ結びついたあかつきには「かけがへのな」さが愛というものと切り離しがたく存在することになる。と、こう文章にして書いてゆくとだんだんに説教じみていく。胃もたれがしてくる。うん、わかったという気持ちになってくるわけだけれども、この歌が素晴らしいのはそうした説教じみていく言説の重量と無縁なところであるのだと思う。

上句を名詞「とき」で区切り、下句も名詞「もの」で終わらせる。非常にシンプルな構造であり、なんというか脂っけが少ない。かけがえのない愛、というフレーズはよっぽどのことがないかぎり油ぎとぎとの天ぷら定食になってしまうところ、からっとふわっと揚がっている。構造もそうだが、「思ふとき」「かけがへのない」「といふ」の旧かな遣いが与える印象もかけがえのない愛、の重量を削いでいて、このふわっとした感触こそが愛というものなのではないかと力説したくなってしまう。したくなるだけで実際にするのはやめておくが、いずれにしても韻文のちからについて考えさせられる一首である。

 

この鍵で開くからわたしの部屋なんだ真つ暗闇に明かりをつける

 

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