毒はきれい毒はおいしいるるりらとひかるつららに子どもらは知る

石畑由紀子『エゾシカ/ジビエ』

 

触れがたいものには触れたくなる。その触れたさはたとえば火であったり空であったりこの歌ではつららだけれど、他のものでは代用しようがない美しさ、きれいさを持っている。火は触れればやけどをする。空は触れようとして上昇しても触れることができず、上昇すればするほど危険に身をさらすことになる。つららはつららで、あれは水分と塵やほこりでできているので触れたり食べたりしても致命的なダメージは負わないが、それでも体にいいものではなくごく弱い毒を含んだ物質ということになるだろうか。その割に透明度と言い細くとがった形状と言い触れがたいものの持つ美しさ、きれいさは十二分に兼ね備えている、食毒の入門に最適な素材である。「毒はきれい」からの「毒はおいしい」へのつながりには狂気がひそんでいるにもかかわらず、あまりにもなめらかに「きれい」が「おいしい」へ変奏していくのでこちらとしてもきれいなものはたしかにおいしいものなのだと柔らかく押し込められてしまう。思えば火も空もつららも食べたらとろんとしたおいしさに溢れているようなきれいさであるなあ、という気分になっていく。

三句目以降「るるりらとひかるつららに子どもらは知る」はるるりらるらららるとラ行音がばら撒かれてつららの生き生きとかつねっとりとした照りが表れ、子どもらも楽しげであって怖い。ラ行音のめくるめくたのしさに持っていかれそうになる。「毒はきれい毒はおいしい」という楽しげな声なき声と一体化しながら、子どもらはつららをもぎとり、その細さを歯で折ったりして口にする。いろいろと怖いのだけれど、日々の食事というものも短期的には命をながらえるものである一方、わかりやすい例で言えばコレステロールの蓄積など長期的には命を縮めるものでもあるのだということが歌と二重写しに見えてくる。そうして毒のおいしさに、今度は主体的に納得する。この歌をくりかえし読むうちに一首から滲みだす生命のアンビバレントというか、生きることのどうしようもなさを楽しく歌い合うような語感で宥めすかしているような気もしてくるのである。『エゾシカ/ジビエ』には引用歌以外の作品にも生命のアンビバレント、生きることのどうしようもなさをさまざまな角度から感じさせるものが多くある。ここでは引用しないが、本書のあとがきも併せて苦しさと美しさがもつれあった一冊である。

 

肉を焼く お前も肉だろうという声が肉からする 肉を焼く

 

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