『氷魚』島木赤彦
※「見ており」は表記ママ
第三歌集巻末に近い連作「氷湖」より。音数のうえでは「うみのこおり」と読むのか「みずうみのひ」と読むのか悩ましい。前者の三・三で区切るほうが、「こおり」の語感から得られる冷ややかさが増すだろうか。少し今っぽく聞こえすぎる気もするが。
「氷湖」は一から三の部に分かれ、おおむね序破急のような構成になっている。
ここにして坂の下なる湖の氷うづめて雪積りをり
みづうみの氷に立てる人の聲坂のうへまで響きて聞ゆ
(氷湖 一)
田の中に爪もて我のたたき見る堅き氷に日のあたりをり
(氷湖 二)
氷の湖の沖に大きなる穴あけり雲の動きのすみやかになりて
つぎつぎに氷をやぶる沖つ波濁りをあげてひろがりてあり
(氷湖 三)
初めに湖の様子があるていど静的に描写され、つづいて田の中で氷を切り分けている。最後には嵐が訪れて、一面に張っていた氷を破り砕いてしまう。
湖に対して、坂の上-下という位置関係がある。この人は坂の上に立ったり、下って湖のきわに接近したりと移動を繰り返し、それは必ずしも移動として明言されるばかりではないけれども、連作の背景にうっすらと透けて見える運動が読みどころのひとつ。坂の上にあるときは、湖のことをいくらか印象や想像でおぎなっている。降り積もった雪の下に氷が広がっているだろう、耳に響く声は氷の上で作業にいそしむ人のものだろう、という。田で叩き割ろうとされている氷は湖から切り出してきたものである。寒く、淋しい風景であるいっぽうで、輝かしい生命感がある。氷が水へ、水が氷へとうつろうという動きも関係するだろうか。そうした運動は嵐によってはげしさを増し、神秘的に見えていた氷の湖は、ちょっと雲が速くなるくらいの風の強さでたやすく壊れる。
掲出歌は三の部から取っている。初句から、この人の中に「坂下の湖」という認識があることが推定される。世の中にかずかずの湖がある中でも「坂下の湖」という特定があり、これにより愛着や親しみを感じさせる。そうした愛着あるものが、ひとつの自然が、べつの自然によって壊されていく。とうぜんなすすべなくその風景を佇んで見ているほかないうえ、この人じしんもまた「嵐のなか」に取り込まれた存在となる。ただしこの人もまた、嵐に成り代わるわけではない。たんに自然の、毎年の風景を描いているに過ぎない、と思うのだけれど、ここには現実の鏡でも心象風景(たとえば諦念とか)でもない、自然そのものの姿、心そのものの姿が、互いをたもったまま書かれているように感じた。
