いひぎりの乾びて黒き房の実のそらの無数を無惨と言はず

森川多佳子『そこへゆくまで』

 

イイギリはヤナギ科イイギリ属の落葉高木で秋になると赤い数多くの房実を下げる。その赤い房実が今は干からびて黒く変色したまま、なお木の枝に残っている。赤い実の捧げられていた空は秋空から冬空となりこの一首に詠われた頃には春が近づいていたかもしれない。秋の充実した果実のつややかさ、房実の豪華さを思えば、現在の姿は一方では無惨である。「無惨と言はず」という結句に「無惨」の語があるかぎり、このイイギリを目にしたとき一人の身体にしまわれたかずかずの言葉のなかから無惨というたったひとつの言葉が無意識によって掬い取られたことは間違いがない。無意識によって掬い取られた無惨は意識の前に置かれ、干からびた房実とリンクする。無惨であると思いながら喉のあたりでその思いを堰き止めてゆく力が、結句の打ち消しに重なる。ぐっとした堰き止めの意思を感じさせてこの歌は終わるのだけれど、そうした無意識と意識とのごくしずかな拮抗がこの歌の背骨となって表れているだろう。無意識の瞬発力がこの今だけを捉えるなかで、意識のほうはより長い時間をたぐり寄せる。無惨の時間を遡れば遡るほどに房実は色彩を取りもどしつややかな赤い実りとなっていく。現在が無惨であればあるほどに遡った先の房実は大きく立派なものへと還っていくはずである。無意識の瞬発力によって与えられた現在の無惨が、こうしてむしろ充実の証となって現在を塗り替える。

 

シューベルトの遺作のソナタの悲は澄みて抗癌剤のからだ忘れき

 

闘病の色が濃い一首であるけれど、シューベルトの遺作となった楽曲の「悲」から抽出された澄明が点滴のようになってからだのなかへと沁み込んでいる。「抽出」は、そのもの(ここで言えば悲)があることの現在性からすれば、はるかに長い時間のかかる行為である。長い時間を抱え込みそれを味わうことで塗り替えられてゆく現在が、掲出歌と同じようにこの歌にもあるのだと感じる。一首の内容と時間というものの性質が無理なく溶け合い歌の奥行きを深くしているこうした作品に、『そこへゆくまで』のもっともゆたかな美質が表れているのではないかと感じている。

 

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