被写体、とあなたが言えばランウェイの上を五月が勝手に歩く

『眠りの市場にて』笹川諒

この歌にはいっけん〈私〉が見えない。ここにあるのはたとえば絵のきれいな漫画の数コマで、まず高性能な一眼レフのカメラをかまえた「あなた」が描かれている。次にファッションショーが始まる前のがらんとした会場が引きの構図で描かれ、突如ライトアップされたランウェイの上に、「五月」が颯爽とやってくる。「勝手に歩く」わけだから、この場面に〈私〉の意思は入り込まない。「五月」がやってくるトリガーとなったのも、「あなた」が「被写体」とつぶやいたことによるものだから、やはり〈私〉の意思ではない。あくまで、描かれた漫画の数ページをさらっとめくるような存在のしかたである。

ゆいいつ、〈私〉でなければならない理由があるとしたら、それは「あなた」という二人称によるものである。この「あなた」は〈私〉でなければ特定されない。いくら漫画であるといっても、そのカメラをかまえた顔がどの「あなた」であるのかは、この人だけに固有の認識である。「五月」をいったん会場から出して、歌の世界を少し身近な場所へ引き寄せてみよう。ここは五月である。桜はもう散っているだろう。道端の草はゆるやかに今年の成長を始めている。いっぽうで、曇りがちの日も多く、すでに足早な梅雨の気配が迫っているかもしれない。変化の季節をまのあたりにしながら、夏に向けて満ち始める光と、自然のそのていねいな造作を、「あなた」は撮影したい気分になっている。まるで「被写体」だと「あなた」がつぶやく。そのとき、〈私〉のなかでは、この「五月」がみるみる大きくなりこちらへ近づいてくるような、動的な印象がうまれる。美術館では見る側が移動することで次の作品を視認することができるが、ファッションショーではモデルの側が「勝手に」つぎつぎと歩いて作品を見せてくれるのがおもしろい。〈私〉はとうぜんこの場の「五月」の一部であるから、こうした動的な感じ方の中で、〈私〉の存在もまた、よりくっきりとしてくる。〈私〉は歌にたいしては明確な座標をもたなくても、この場面にはたやすくかるがると存在し、〈私〉が見ている「あなた」の目を通して、存在をたしかに感じることができている。

栞(江戸雪、大森静佳、石松佳)では、この歌集と「夢」に関する言及が多くみられた。夢と現実との差異として、現実はあるていど自分の意思で操作ができるが、夢は多くアンコントローラブルなものだ、と仮定してみよう(それだから「明晰夢」は貴重に感じられる)。ただ、ここしばらく、もう現実は操作可能なものではないというほうが、実感には即しているのではないか。あらゆる局面で、手を放すことが求められているように感じないか。それは過去の歴史からの繰り返しなのか、また今後も長期的な印象になっていくのかわからない。ただ、そうした「現実」のなかでも、さまざまな方法しかも美しい表現で、〈私〉の手触りは残り続けることを信じ、示している歌集だと思う。

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