鳥さんの瞼『死のやわらかい』(点滅社)
歌集タイトルの通り、集中にも死にまつわる歌が数多くあるが、私にはこの一首が一番光って見えた。美大を目指したことなどないはずなのに、なぜか鋭く共感してしまう。
養育者たる母親は「むりよ」と言うが、美大に行けるかどうか、ほんとうには自分のほうでわかっているのではないか。美大は無理、と言われたときにある可能性として、金銭的に行かせてやることは難しいという現実、またあなたには能力的に及ばないであろうという忠告、いずれかか、あるいはどちらも含んだ「むりよ」なのか。だって、そばにいてずっと見てきたのだから。私から生まれた子なのだから。そんな遠くまでいけるはずがない、とわが子の可能性を見限るような残酷さもないとは言えない。
けれど、諦めさせるための言葉であれば説得の仕方はほかにいくらでもあるはずで、ひらがなで書かれる(聞こえる)「むりよ」にはもっと、歌うような音楽性がある。難しいんじゃないかなぁ。うーん、まあ実際は大変だよねえ。何浪もするって言うじゃない。現実の母親はきっとこんなふうに切り出す。あんた、うちじゃそんなお金は出せないよ。そうはっきりと伝えることだってできる。
だからこそ、「むりよ」という一言の圧倒的なディスコミュニケーションにちょっと怯んでしまう。金銭面や能力的に、そういう現実の進路の可能性を断つためというよりむしろ、進路そのものが濃い霧のなかにあるような、母親の目には何も見えていないかのような怖さがある。
母親の放つ「むりよ」の一言を主体がどう捉えたのかはわからない。ただ、「むりよ」で巻き貝のなかは明るくはならない。穴から覗く細い巻き貝の先にもとより出口はなく、二本の線が螺旋状に時間をかけてねじれてゆくことによって、つまりは樹木の年輪のように、ひとつの巻き貝は形成される。筒ではない、見通すことのできない細い起点をのぞき見るように、これまでの親子関係を遡るように、はなからあり得ないというニュアンスで「むりよ」はいま響いている。閉じた親子関係を思わせながら、どんよりとはしないのは、「明るく」という言葉が担うのではなく、「むりよ」という語が波及する一首ぜんたいがあまりに張りつめているからだと思う。母親は歌っている。全然知らないところで、私へ届かないところで歌っている。恐ろしくて、相容れず、母親とははなからそうである、と思いたくなってしまう。あくまで朗らかに、明るくなどならない巻き貝を光らせるように。
話すこと 諦めること おだやかなマグマをもったジャムぱんを割る
