墓石はこのあとどうするんですか 削ってまた使います らしい

白川ユウコ『ざざんざ』

 

墓じまいについての墓地管理者とのやりとり。死にまつわるいろいろはどうしても湿っぽいほうに持っていかれてしまいがちだが、墓について問う者も答える者もからっとしている。結語の一字空け+らしい、も他人事のようで気持ちがよい。生きている自分から見れば、死んだあとの自分はたしかにほとんど他人のようなものだろう。この歌のなかで墓石が持つ唯一無二感も永久感もあっさりと塗り替えられる。石に彫られた文字は削られふたたび新しい墓石となって生まれ変わる。マトリョーシカと同じように小さくなることでどんどん生まれ変わり、マトリョーシカと違って大きいほうは小さなものの生まれ変わりとともに姿を失う。そうだとしても、墓石の内部に何かしら透明な固有性がしみ込んでいるような気もする。いわゆる幽霊と呼ばれるものの透明や人の気持ちの透明が、透明であるがゆえに墓石から削られた文字を超えてひとつの石を所有しつづける幻影を見てしまう。とはいえ石は石であり、再利用することの経済性を重視するとき上述した透明は、透明であるがゆえ無視することもできる。個人的にはどちらにも軍配をあげがたいところだが、現実はあっさりと再利用のほうに軍配があがっている。幽霊や気持ちの透明が息をしている世界のからくりは、経済性のからくりによってほんとうの透明を与えられたのだろう。

『ざざんざ』は章分けの記号として「Ⅰ」「Ⅳ」といった数字の代わりに西暦が用いられている。「2013」から「2024」までは年が飛ぶことなく順番につづくなか、巻頭の章だけは「1999」であり、

 

かつてわれ屋上の柵乗り越えし東急プラザ解体される

無保険で生きてる友の妊娠の検査のために貸す保険証

 

といった歌がならぶ。

この西暦の飛びかたの不自然さにはいくつか思惑があるのだと思うが、この一首に即して言えば就職氷河期という時代の経済性によってより深い透明を与えられながら、なお透明になりきることのできなかった心身の無念が時間のなかで乾燥し、ある部分では諦念となってからっとした質感をもたらしている、そのことを思わずにはいられない構成であるという気がする。一首の気持ちよさが単純明快なものではなく紆余曲折の先に表れたものであることを、歌集の構成のささやきによって気づかされるのである。

 

 

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