標識の一々雨に打たれいる道すがらわれは道をあやま

花山周子『林立』

 

雨の道は雨というだけで歩くのがつらい。なぜ移動手段を徒歩に限定して語り出したのか、車での移動ということも考えられるのではないか、という疑問があるかもしれないが、これは徒歩だと思う。室内にいるとき、車内にいるとき、雨はいわば他人事である。もうひとつ言えば乗車している人間の視界のなかを想像するに車はほとんど硝子の箱である。だから運転席にいるならフロントガラスに当たる雨が邪魔をして意識をより遠くにある標識の雨までおそらくは持っていけない。「標識の一々雨に打たれいる」のダイレクトな把握からは視界と標識のあいだに何ものも挟まれていない生々しさがある。また、雨の日に標識が雨に打たれていることは当然のことだけれど、その「当然」にまなざしの持ち主はなぜかしら打たれてもいる。雨に打たれ、標識が雨に打たれているという当然にも打たれ、結果的に二重に打たれている感じである。雨に打たれて標識が見えづらいから道を過ったようにも読めそうではあるが、「標識の一々雨に打たれいる」からは意識の向きどころが静ではなく動のほうへ寄っている雰囲気が如実である。

「一々雨に打たれいる」は同時にそのさまを見ている自身の行為の「一々」でもあって標識をすがるように確認しながら意識は打つ雨の動きのほうへ逸れていく。標識という固体を見ているつもりでいて、標識を雨が打っているという現象を見てしまっている。これはもう「過つ」。「雨」と「当然」双方に打たれてほとんど劣勢のボクサーである。目は標識でなく現象を追っており、どうしたって過つ流れが出来上がっている。この歌の、きちんとやることをやっていながらだんだんと逸れていき過ちにゆきつく流れは、大げさに言ってしまえば運命のからくり、ということになるだろう。『林立』は一冊を通して杉の木をテーマに据えた歌集である。一直線にぐんぐん成長していく杉は戦中戦後と輝かしい未来の象徴のように扱われ、一方その当時の未来である現在からすれば花粉症に代表されるような厄介ものとしての成分を濃くして存在している。杉の木は良かれと思って植えられてただただ順当に成長してきただけなのに、望むべき立場から逸れてしまった。これもまた運命のからくりなのだと思う。掲出歌は杉のモチーフが用いられていない一首だけれど、この一冊の裏モチーフである運命のからくりが縮尺されたかたちで表れているはずである。

 

国民を涵養したる風景とわれはさもしく杉を見ている

 

 

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