乾草も集めねばならぬ飯も炊かねばならぬもろこし畑には烏が来る

『牧歌』石川不二子

~しなければならない、という観念のことをどう呼ぶと適当なのだろう。義務感というと根拠が外在的にすぎ、焦燥感であればどこか、追われているという意識のほうが強く前面に出ている。ではなくて、突き詰めれば〈生きなければならない〉という集団としての最善策のようなもの。たぶんあらゆる種は〈生きなければならない〉という原則に従って行動しているのだろうが、こうしてはっきりと、言葉にして理屈を仕立てながら生ある限りの日々を送っているのが人間という種であるだろう。

ゆえに、言葉にして理屈を仕立てるがために戦争や侵略などの過ちがうまれるのだろうか。言葉がいつも正しいと思うのは、ひょっとしたら思い違いなのかもしれない。~しなければならない、と口にした瞬間、それはあたかも完全な義務を負うことのように見えるが、言葉は平然と、中抜きされた理屈だけを成立させることができるのかもしれない。掲出歌の強烈な印象、生に対して人が負うさだめのようなもの、はそうした機械じみた言葉のはたらきを見通しながら、さだめを深刻に書きつけようとしていることで感動を呼んでいる。二度にわたる「ねばならぬ」のリフレインがある。乾草を集めるのは、育てている家畜のため。煮炊きをするのは人間が生きるため。やってくる烏も、(少しは楽したいと思ってかもしれないが)個体として生き延びるための食物を畑で探しているが、人間にとっては飼料や自身の食卓に使うための畑であり、適度に追い払う必要がある。大地の一部を使って人や動植物が混ざり合いながら暮らしている場面をあえて言葉にすることには、野生に育った言葉の種を畑にまき栽培するのと同じような、規律や動機が根付いていて、広いような狭いような畑の原風景が広がっている感じがする。戻ると「ねばならぬ」が二度で終わり、三度めは「烏が来る」とだけ記されている。現在形の事実のような、少し未来を予期するようなふしぎな時制をとる結句の変化により、「ねばならぬ」の営みが短いスパンでしかし継続的に続いていくことが示唆される。

ふり切りてゆけよと人は思ふらし薔薇のくれなゐ深む秋にて
一瞬に気弱き顔をさらしあひし後いつまでか動悸してゐつ
夢すらやさわがしきわがあけくれに雨降れば雨の海を思ひつ

生活に根差した農場の風景が特にフォーカスされる作者と歌集だけれども、その感動の素地というか、内省における筆致の太さにむしろ動揺する。こんな感情について、この短い定型でどう言い切れるのか、というのが心のなかを源泉として書きはじめるときの戸惑いだと思うが、「ふり切りてゆけよ」とか「動悸してゐつ」「雨降れば雨の海」といったフレーズには描写でも感傷でもないような素の手触りがある。「ねばならぬ」もおそらく、こうした手触りに沿って生まれた言葉の使い道だろう。

欲りしみな与へられたるてのひらを光に向ひふりこぼすなり

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