やわらかいものに匙を入れるとき、え、と小さくそれがささやく

東直子『十階』

 

匙との関係から思い浮かぶやわらかいものは、プリン、生クリーム主体のケーキ、お粥、個人的にはこのあたりである。そのなかでも、え、と言いそうなのはプリンだと思う。生クリーム主体のケーキもお粥も差し込まれた匙を無言で受け入れ、匙で抉られても無言であるような気がする。特にお粥には無言が似合う。お粥のどろっとした形の不安定さを思うに、匙を入れられてもきっとそれを自然に受け入れる準備ができている。一方でプリンにはやわらかさとともにはりつめた形があって、匙を入れたら驚いてしまう、そういうはりつめたもののびんと振動する精神の気配がする。『十階』は「ふらんす堂」のホームページに「短歌日記」として毎日更新された短歌をまとめたものだが、一首は短文とセットになっている。この歌にも歌より先に短文が記されていて、その内容は杏仁豆腐についてである。だからこの歌の言う「やわらかいもの」は基本的には杏仁豆腐ということになるだろう。見た感じは白いプリンであり、やはりはりつめた形をしていて、え、と言いかねない存在であると思う。思うのだが、それはこの歌が掬い取り気づかせてくれたことで、お粥の無言もこの一首をきっかけとして個人的な気づきを得たものである。杏仁豆腐、プリン、お粥とやわらかい食物のなかのそれぞれの違いは当然知っている。味の違いも見た目の違いも当然知っているけれど、甘いかしょっぱいか、白いか黄色いか、といった分類の基準だけをもってこれらの食物を知った気になっていたのではないか、と気づかされる。この一首の、え、とささやくかささやかないか、という基準が何かこれまでのすべてをひっくり返していくようななまなましい基準となってこちらの脳裡にこびりつく。

杏仁豆腐は匙を入れられたとき、え、と発するものだとして、おそらくそれ以降、やめてくれ、とか、ちょっと待って、とかは言っていない。ただひと言、え、とだけ驚く。そのときにはもう匙は白い表面を壊しながら奥へ奥へと差し込まれている。気づいたときには、杏仁豆腐はもう終わっている。人間の五感は残酷さをできるかぎり遮断する方向に動いているはずだが、その遮断の間隙が大きければ大きいほど聞こえるはずのない声を聞いてしまう。うっかりとして世界とダイレクトに接触してしまうのは危険なことでもあるわけだけれど、この間隙の大きさが掲出歌の凄みであり、東直子の作家性にも深くかかわっているのではないかという気がする。

 

ごめんくださいとたずねてゆくときのうすくらがりにうかぶ足首

 

 

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