『森見ゆる窓』蒔田さくら子
少しばかり奇妙な味がするようで目を引くのは「犬とわが息が合ふ」という表現によるものだろう。ひとつ手前の「くぐまれば」も。犬を連れて散歩しているとき、二足歩行の人間の視界は犬よりも高いところにある。ただ、(これは喩として)息を合わせていなければ、犬が先に突っ走ってしまったり、反対にひとところに留まって歩こうとしない、という状態になるのだろう。視野の違いがありながら、歩調をあわせているという物理的な状態がある。その差分によって、人と犬との心の寄り添い方のようなものがむしろ強調され、歌の背景として展開されている。かたや人と犬とは異なる種であり、ふだん人は犬のようにハッハッと速い呼吸をしているわけではない。どういうときにこの呼吸に対しても寄り添いが生じるかというと、何かをのぞきこもうとして、低くかがんだやや無理な体勢をとったときである、というのが歌の要旨になる。
通常は高いところにある人の視線が、犬と同じ高さ(低さ)へぐっと低くなることになる。同時に体が無理をしているから、呼吸がふだんより速くなる。なぜ〈奇妙な味〉という印象をもったかというと、やっぱり、人間が犬に同化するような手ごたえを受けるためであるだろう。ただしこれ見よがしなイリュージョンというわけでもない。なんだか淡々と、人の魂が犬の魂に付着してごろごろと変化するような状況に見える。これは映像やアニメーションで表現しようとすればあまりにも大仰になってしまうもので、言葉やこういった文体で淡々としか書き得ない情感であるだろう。「息が合ふ」という、慣用句と実像との間を縫うような、説明調の手前で現実をていねいに書きとるようなしぐさがある。
前半の虫に関する描写もやはり淡々としている。いま現在も、関東ではちょうど虫の声が盛んになっている時期だけれど。虫の「声」は風景や季節に溶けこみそうでそうならず浮かび上がる。かろうじて個体を聞き分けることのできる、微妙にそろいきらないユニゾンである。それが「こもごも」ということ。人と犬がつかの間ぴったりと息をあわせているのと対照的に、虫はどこまでも個人主義であるように見える。サイズとしては人より犬よりはるかに小さいが、ひとつずつが世界に対してくっきりと主張するような。そのささやかなくっきりさが「こもごも」という四音で小さく書かれることに、端的であるが的確という印象をうける。全体をまとめると、犬の散歩中に起こったワンシーンという歌であるはずが、そこには虫の世界も犬の世界もあり、それぞれのはっきりとした現実が〈私〉によって繋ぎ止められている。いっけん静かな歌に見えるのに、どこか奇妙でどきどきとする。とうぜん現実なので、わざわざ溶け合ったり混ざったりすることはないが、歌の場において人が独立した仲介者のようなはたらきをして、世界をより詳細に示して見せている。神でも動物でもないこの視点は、むしろ視覚化される前の言葉によってしか表現できなかったのではないかという気がする。
